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マナーはなぜ大切か

某受験の試験監督をした。試験監督は思いっきりエッセンシャルワーカーで、感染の恐怖はただごとではなかった。マスクの仕方を正確には理解していない年齢の人々と同室で二日間まるまる過ごすというのは、それなりにリスクがともなう。


それはさておき、試験監督の間で毎回話題になることがある。それは、「答案用紙や問題冊子を配布すると、軽く会釈してくれる子と、まったくふんぞり返っている子とがいる」というもの。当然前者の方に好感をもつ。


会釈をする子は、試験監督に対して感謝の意を表している。ふんぞり返る子は、そうしてもらうことは当然だと思っている。さしあたり、そのように解釈できる。


人が、ある感情を表出するのは、自然な生理現象である。腹が立てばそれが顔に出るし、嬉しければ顔がほころぶ。同じように、感謝の念がわけばそれが行動となって現れるし、敬意が心に芽生えればことばとなって現れる。


生じた感情を体で表現しないというのは、それなりに訓練を要する難しい技術であるし、感謝や敬意を感じたけれど、それをあえて我慢して外に出さないという選択に迫られるシチュエーションはそうないと思われる。


してみると、単純に、「謝意や敬意を表する子は、その感情が芽生える子で、そうでない子はそもそもそのような感情が生じない子」というように二分できる。

感情の表出の仕方は文化によって異なる。どのようなタイミングで感情を生じさせるべきか、ということも文化によって異なる。たとえば、中国や韓国では、親しい間柄の人と食事していて、胡椒をとってもらったくらいではありがとうと言わないかもしれない。一方、日本文化ではそれをするべきで、無言でいることはかなり不自然な行為である。


つまり、子供たちは、どのタイミングで謝意や敬意を表するかを、その文化で生活することで身につける。どのように感情を表出させるかは、したがって知識の問題であるが、その行動を引き起こす感情の出来は、そのような感情を呼び起こすことができるか否かという、「能力」の問題である。


謝意や敬意を、適切なタイミングで表出させることは、したがって「能力」の問題である。教員や親の大きな役目は、この「能力」を適切なタイミングで発出させることができるように教育することであると思う。


以前、私は、マナーのない学生に対して、「知らないだけで、本当はできるはず。だから、マナーを教えていかなければ」などと考えていた。実際、つい数週間前までそう思っていた。授業に遅刻してくる子がいる、授業を休んで就職活動をする子がいる、それはすべて自分の授業に魅力がないからだと考えていた。


もちろん、そのような部分は否定できない。しかし、これまでの考察からすると、マナーを知らないというのは、本人の能力に帰するところが大きいと思う。なぜなら、彼らにはどのような行動をとるべきかを選択するチャンスがあるからである。

レストランで店員が水をくんでくれた。そのときに客として当然と考えてふんぞり返るか、お礼を言うか、子供は成長する段階でどちらの大人も見てきているはずである。自分がどちらの行動をとるか、選択するときに、ふんぞり返る子は、ふんぞり返る方を選択したということになる。つまり、彼らは自らの能力でそちらを選んでいる。


同じように、指導教員に書いてもらわなければならない書類を提出するときに、教員が不在だった場合、その書類をはだかでなんのメモもせずにポストに投げ入れるか、封筒に入れて付箋にメッセージを書いた上で投函するか、これも注意深く周りを見ていれば遭遇しているはずのマナーである。


「知らなかった」というのは、観察不足であり、「それでいい」という判断は能力の欠如である。謝意や敬意を表出することができないという意味において。


「いや、それは違う。私は大学では授業料を払っている客である。客はサービスを与える教員に対して謝意を表する必要はない。自分が就職してサービスを与える立場になれば、自分も適切に振る舞うことができる」と考えるかもしれない。


しかしそれは、「私は、立場や状況で態度を変える人間です」という表明に過ぎない。そのように表明することは自由である。しかし、私はそのような表明に敬意を表する能力は持っていない。


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