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第148講 ヴェトナム戦争と第三世界の紛争

148-1 ヴェトナム戦争


Keyword 
1:ジュネーブ休戦協定 
2:ヴェトナム民主共和国 
3:ホー=チ=ミン 
4:ヴェトナム共和国 
5:ゴ=ディン=ジェム 
6:北緯17度線 
7:南ベトナム解放民族戦線 
8:ジョンソン 
9:ドミノ理論 
10:ヴェトナム戦争 
11:トンキン湾事件 
12:北ヴェトナムへの爆撃(北爆) 
13:双子の赤字 
14:ヴェトナム(パリ)和平会談 
15:ヴェトナム(パリ)和平協定
16:米軍のヴェトナム撤退 
17:サイゴンを陥落 
18:ヴェトナム社会主義共和国 
19:ラオス愛国戦線(パテト=ラオ) 
20:ラオス人民民主共和国 
21:ロン=ノル 
22:シハヌークを追放 
23:赤色クメール(クメール=ルージュ) 
24:ポル=ポト 
25:民主カンプチア

 冷戦期には、米ソ間やヨーロッパでは戦争が回避されたが,アジアやアフリカでは,冷戦を背景とした戦争や紛争が生じた。

ヴェトナムの南北対立

 1954年の1:ジュネーブ休戦協定後、約束された南北統一選挙は実現せず、独立を認められた2:ヴェトナム民主共和国(指導者3:ホー=チ=ミン、首都ハノイ)に対し、南部に合衆国に支援された4:ヴェトナム共和国(大統領5:ゴ=ディン=ジェム、首都サイゴン)が建てられ、6:北緯17度線を境に南北対立が続いた。

*とても紛らわしいのできちんと区別しよう。
 ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム) 
  ホーチミンが建国
 ヴェトナム国(南ヴェトナム1) 
  バオ=ダイ、フランス第四共和政が後援
 ヴェトナム共和国(南ヴェトナム2) 
  ゴディンジェム、合衆国が後援
 ヴェトナム社会主義共和国 
  南北統一後成立した現在のヴェトナム

 ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)内で反米・反政府運動が高まると、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)は南の民族主義者を支援し、1960年ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)内で7:南ベトナム解放民族戦線が結成された。

 合衆国の民主党のケネディ大統領は、ソ連が支援する北のヴェトナム民主共和国に対抗して南のヴェトナム共和国ゴ=ディン=ジェム政権を支援したが、63年ゴ=ディン=ジェム政権も崩壊し、ケネディは暗殺され、ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)内では南ベトナム解放戦線の勢力が大きくなった。

ヴェトナム戦争


 ケネディの後任となった8:ジョンソン大統領は、南ヴェトナムが崩壊し共産側となれば周辺諸国も共産化すると考える9:ドミノ理論に立ち、「自由世界の防衛」をかかげて、本格的な軍事介入を行い、南北間の10:ヴェトナム戦争 1965~75、開始年には諸説あり)に介入した。

 1964年、合衆国の駆逐艦がヴェトナム民主共和国による魚雷攻撃を受けたとする11:トンキン湾事件を口実に、翌65年、12:北ヴェトナムへの爆撃(北爆)に踏みきったが、事件は捏造であった。

 ソ連と中国は北ヴェトナムと解放戦線に大規模な軍事・経済援助を行った。ヴェトナム戦争は長期化し、第二次世界大戦後最大の戦争となり、数百万の人命が失われた。ヴェトナム戦争の長期化は合衆国の財政に深刻な打撃を与え、財政赤字と貿易赤字の13:双子の赤字が増大した。1968年の大統領選挙でジョンソン大統領は再選を断念した。

ヴェトナム戦争の終結

 1969年就任した共和党のニクソン大統領は、ヴェトナムへの軍事介入を縮小し、「名誉ある撤退」をめざした。

 1968年はじまった14:ヴェトナム(パリ)和平会談が続けられ、1973年15:ヴェトナム(パリ)和平協定が成立して米軍は撤退した(16:米軍のヴェトナム撤退)。

 1975年、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)と南ヴェトナム解放戦線がヴェトナム共和国(南ヴェトナム)の首都17:サイゴンを陥落させ、ヴェトナム共和国は滅亡し、南北統一が実現した。*ホー=チ=ミンは1969年に亡くなっており、サイゴン市は彼にちなんでホー=チ=ミン市と改名された。

 1976年、南北統一選挙が実施され、ハノイを首都とする18:ヴェトナム社会主義共和国が成立した。 (ラオスとカンボジアの共産化)戦争後ラオスとカンボジアも共産化した。

 ラオスでは19:ラオス愛国戦線(パテト=ラオ)が1975年20ラオス人民民主共和国を建国した。

 カンボジアでは1970年、合衆国の支援を受けた軍人21:ロン=ノルがクーデタをおこし、国王22:シハヌークを追放したが、ヴェトナム戦争が終わると中華人民共和国に支援された23:赤色クメール(クメール=ルージュ)が強大化し1975年指導者24ポル=ポトのもとで政権を握り、1976年25:民主カンプチアを建てたが、その後も内戦が続いた(後述)。


教科書で確認

 ベトナム共和国(南ベトナム)では、ゴ=ディン=ジエム政権が独裁体制を強めるなか、1960年に南ベトナムの解放をめざす南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と連携してゲリラ戦を展開した。63年にジエム政権が軍のクーデタによって倒れたのち、アメリカ合衆国のケネディ政権は南ベトナムへの軍事援助を本格化させた。北ベトナム正規軍が南ベトナムへ派遣されると、65年に合衆国のジョンソン政権は北ベトナムへの爆撃(北爆)と大規模な軍事介入に踏みきった。しかし、ソ連と中国の軍事援助に支えられた北ベトナムと解放戦線は、森林でのゲリラ戦を展開し、近代兵器で武装した米軍に粘り強く対抗した。68年までに合衆国は約50万人の地上兵力を南ベトナムに派遣したが、戦局は泥沼化する一方だった。ベトナム戦争に対して国際世論は批判を高め、アメリカ合衆国の世論も二分された。1968年、合衆国は北爆を停止し、北ベトナム側とパリで和平交渉に入った。

 【世探704】詳説世界史 山川出版社





148-2 アジアの開発独裁と東南アジア諸国連合成立


開発独裁

 一国の経済発展を軌道に乗せるためには、政治的独裁もやむをえないとする理論を1:開発独裁という。

 先進国はおおむね植民地からの収奪で開発初期の経費を捻出したが、戦後に独立した国々は国民の政治的な権利を抑圧して外資導入などで開発に着手しなければならなかった。

 ヴェトナム戦争を抱える合衆国は開発独裁を利用し、経済的支援を供与して、共産化を阻止しようとした。

朴正煕政権


 大韓民国では、李承晩の死後、2:朴正煕が1961年クーデタで政権を握り、63年大統領となった。*韓国前大統領、朴槿恵の父。ヴェトナム戦争にも大軍を送った。

1. 合衆国の支援を得るため、1965年国内の反対を押し切って3:日韓基本条約に調印し、日本との国交を正常化し、日本から経済支援を受けた。

2. 1962年から五ヵ年計画を行って高い経済成長を実現し、70年代には4:アジアNIESの一角に数えられるようになったが、79年暗殺された。

アジア新興工業経済地域 
(①韓国)
(②台湾)
(③シンガポール)
(④香港)

スハルト政権

 インドネシアでは、軍人出身の5:スハルト(任1968~98)が開発独裁をすすめた。

 1965年、反スカルノ=クーデタを阻止したとされる革命評議会を、軍人スハルトが弾圧し、さらにスカルノの支持基盤のひとつだったインドネシア共産党を弾圧した。これを6:九・三○事件という。これを機にスカルノが失脚し、スハルトが実権を握り大統領となった(1968~98)。*背後に合衆国、CIA。

その他の開発独裁


 イラン、フィリピン、シンガポールでも、経済開発を優先する独裁があらわれた。

7:マルコス 

 フィリピンでは1965年マルコスが政権を握り、合衆国の援助で長期独裁を行った(1965~86)。

8:パフレヴィー2世 

 イランでは1963年から合衆国を後ろ盾とした国王パフレヴィー2世(位1941~79)が、土地改革や女性参政権実施などの社会改革を断行した(これを9:白色革命という)が、宗教界との対立が深まり、1979年10:イラン=イスラーム革命を招いた(後述)。

11:リー=クワンユー 
 1965年マレーシアから分離し独立したシンガポールは、リー=クワンユー首相(任1959~90)のもとで自由貿易港・工業都市国家として成長し、アジアNIESの一角に数えられた。

東南アジア諸国連合 


 1967年、合衆国とつながりを深めた東南アジア5カ国が、反共の立場に立ち、地域協力機構東南アジア諸国連合を成立させた。

 合衆国で政権が交代し、ニクソン新政権がヴェトナ撤退にとりかかると、1971年、ASEANは東南アジア中立地帯宣言を出し、ヴェトナム戦争後は地域紛争の自主的解決・平和的解決と政治・経済協力を前面に掲げた。*ASEAN役割の変化頻出:ヴェトナム戦争に際しての反共組織から地域間協力・経済協力組織へ。

 ブルネイ(84)、ヴェトナム(95)、ラオス(97)・ミャンマー(97)・カンボジア(99)が加盟した。

148-3 頻発する地域紛争


頻発する地域紛争

 合衆国がヴェトナム問題を戦争という手段で解決しようとして失敗したことは、合衆国の存在感(プレゼンス)を低下させ、世界各地で紛争を武力解決しようとする風潮が生まれた。

 1965年、カシミールをめぐる対立から1:第二次インド=パキスタン戦争がおこった。さらに1971年には、東パキスタンの独立を支援するインドとパキスタンの間に2:第三次インド=パキスタン戦争がおこり、バングラデシュの独立につながった。

*パキスタンがベンガル語圏である東パキスタン(バングラデシュ)にウルドゥー語を強制しようとしたことから、東パキスタン独立運動がおこった。

 アフリカでは、1966年ガーナの3:ンクルマ(エンクルマ)大統領がクーデタで失脚し、1974年、4:エチオピア革命がおこって軍が皇帝ハイレ=セラシエを退位させ軍事独裁をしいた。

 ナイジェリアでは、石油資源の豊富な東部のビアフラ州が1967年に分離独立を宣言し、5:ビアフラ戦争(1967-70、ナイジェリア内戦)がはじまった。独立前から、イスラーム教徒が多いハウサ人が多数を占める中西部とキリスト教徒が多いイボ人が多数を占めるビアフラ州には対立があった。フランス(ド=ゴール政権)や南アフリカ共和国はビアフラ側を支持し、米ソ英は政府側を支援し、戦争は3年にわたって続き、ビアフラ州が敗北した。

第三次中東戦争

 中東では、1967年6:第三次中東戦争が起こった。

 1964年パレスチナの奪還と建国を目指す(7:パレスチナ解放機構)(PLO)が結成された。

 合衆国がヴェトナムにかかりきりになっている間に、ナセル大統領のエジプトを中心とするアラブ連盟諸国がイスラエル侵攻を計画・実行する可能性を予測したイスラエルは、1967年単独で先制攻撃に踏み切った。

 この戦争は六日間戦争とも呼ばれ、先制攻撃をしかけたイスラエルの圧勝に終わり、イスラエルは次の地域を占領下に置いた。地図で場所確認

 8:シナイ半島 … エジプトから奪った地域

 9:ゴラン高原 … シリアから奪った地域

 10:ヨルダン川西岸地区 … ヨルダンの保護下にあったパレスチナ人が住む地

 11:ガザ地区)地区 … エジプトの保護下にあったパレスチナ人が住む地

 敗北によりナセルとアラブ連盟の権威は失墜し、アラブ連盟におけるエジプトの地位は揺らいだ。

 戦争の際、アラブ諸国は1960年に設立された12:石油輸出国機構OPECを動かし、石油戦略を検討したが、中東に利害関係のない国の反対で実行できなかった。 そこで戦後1968年、アラブの産油国のみで構成された13:アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を設立し、次の中東戦争に備えた。



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