星野富弘さんはなぜあの体で結婚を決意したのか
昭和49年12月 星野さんは、キリスト教の洗礼を受けました。
病室で行われたのですが、たくさんの人が集まってくれました
。その中に渡辺さんの姿もありました。皆のうしろの方にいたそうです。
その時の彼女について、星野さんはこう述べています。
「彼女は2年も前から通いつめて、食べ物や身の回りの細かいことに
気を配ってくれては、私と母を自分の手足をつかって助けてくれた。
私の前で聖書の話はあまりしなかったが、その眼差しに、
いつも深い祈りが込められているのを感じた」
控え目でおとなしいが、芯のつよそうな女性の姿が浮かんできます。
中略
以下、これからのふたりの会話は、とても大切な箇所なので、原文のまま転記します。
「渡辺さん、‥‥結婚しようか‥‥。」 車椅子のうしろで、
渡辺さんの顔は見えませんでしたが、私の口から、思わずそんな言葉がもれていました。
「‥‥‥。」 世界中から、急に音がなくなってしまったように、静かになりました。
窓の外は、銀杏の葉がひらひらと散っています。空に張り詰めてあった
黄色いステンドグラスが、粉々にくだけて、地上に降っているかのようでした。
「わたしも考えていたんだけれど、いまはまだ、はっきりと返事は‥‥。
でも、そのことを神さまにいのっているわ。ふたりで祈りましょう‥‥。」
渡辺さんは、車椅子のうしろから、手のひらで私の顔を包むように抱いて言いました。
黄色いイチョウの葉が、蝶々のように風に舞い上がり、夕日を浴びてきらきらと輝いていました。
とても感動的な場面です。2人が互いにどんなに想い合っていたか。
今まで築き上げてきた交流が静かに最高潮に達したのです。
星野さんは手記の中で、次のように綴ったことがありました。
「私は今まで死にたいと思った事が何度もあった。
けがをした当時は、なんとしても助かりたいと思ったのに、
人工呼吸器がとれ、助かる見込みが出てきたら、
今度は死にたいと思うようになってしまった。
動くことが出来ず、ただ上を向いて寝ているだけで、口から食べ物を入れてもらい、
尻から出すだけの、それも自分の力で出すことすら出来ない、つまった土管みたいな人間が、
はたして生きていてよいのか。女性を好きになっても抱くこともできないだろう。
それも頭からはなれない深刻な苦しみだった」
ひとりの若い男性として当然の悩みでした。
そうした星野さんの前に現われたのが渡辺さんでした。
星野さんがキリスト教の洗礼を受ける決意をしたのも、
渡辺さんの存在が大きかったのではないでしょうか。ふたりは信仰を共にし、
敬い、惹かれ合っていったのです。
「結婚してください」ではなく、「結婚しょうか」という言葉が、
星野さんの口から自然と出たのです。星野さんをしてこう言わしめた
渡辺さんとの出会いが、どんなに生きる意欲としての原動力になったか、
計り知れないものがあると思います。
「結婚しょうか」 この言葉を口にして、互いの想いを確認したその日から、
星野さんの生きる姿勢は、大きく変わってきたと思います。
昭和56年4月29日 前橋キリスト教会の礼拝堂で、
星野さんと渡辺さんの結婚式が行なわれました。
渡辺さんがはじめて病室を訪れ、蜜柑を食べさせてくれた日から、
8年が経っていました。渡辺さんの家族の方も、牧師も、
その長い月日の重なりをとても大切に考え、
ふたりが聖書の言葉を支えとしていることに、ひとすじの希望の光を見出してくれたのでした。
妻として渡辺さんを迎えた星野さんの、崇高とも言える愛妻詩があります。
結婚ゆび輪はいらないといった
朝、顔を洗うとき
私の顔を、きずつけないように
体を持ち上げるとき
私が痛くないように
結婚ゆび輪はいらないといった
今、レースのカーテンをつきぬけてくる
朝陽の中で
私の許に来たあなたが
洗面器から冷たい水をすくっている
その十本の指先から
金よりも 銀よりも
美しい雫が落ちている