一度目の緑茶#2
そうこうして無事、離婚届は受理された。
頂いたものは一つ。
「苗字そのまま使わせてもらって良い?」
「好きにすればいい」
そうして旧姓である、ターキュロス・アコリスには戻らず、コータリング・アコリスとなったわたしは急いで不動産へ行く。
賃貸なのであれば最低でも2年は住むであろうと予測する。
物理的な意味合いで、子供たちに貧相な生活をさせたくなかったわたしは最低限2LDKの間取りで探していた。
言わずもがな、東京都内で2LDKとなれば都内の田舎の方でも20万は超える。
そうだ、京都に行こう、
みたいな軽いノリではなく、
致し方ない、埼玉に行こう、
と険しい表情で考える。
※ 都外を蔑視、軽視しているわけではありません。慣れ親しんだ土地にから離れるという懸念、そして不安ゆえです。(これはこれで別件で話しますが、東京に長らく居ると全国から集まる分だけ東京批判に遠慮がなく、肩身の狭い思いを存分に味わっていたりします。)
そこから17年間、埼玉県に住むことになるとは思わずに。
THE・翔んで埼玉!!
最初の難関は子供たちを預け先だった。
仕事をしていなければ、預け先がない。
預け先を確保するには仕事先を提出しなければならない。
夜の仕事で一千万近くお金を貯めたからといって、その貯蓄額が仇になるとは。
働けない、かといって貯蓄額で保護も受けられない。
毎月の家賃や生活費、一般の家庭と同じように育てたいと思えば、一瞬で消えていく額だ。
いつ、この子たちが習い事を始めたいと言い出すのだろう。周りの子が当たり前に持っているオモチャやゲーム機を我慢させ続けなくてはならないのだろう。
贅沢させるつもりはない。
この時点で夜の仕事に戻る気のなかったわたしは、意味がないことだと分かりつつ攻撃的になった。
押し問答となりついに…
コターリング・アコリスは吠えた。
要するに死ねということですか?
わたしは、まだ23歳だった。
世間知らずのわたしでも、その発言が恥ずかしいだけの役場の人間を困らせることはわかっていた。それでも子供たちの預け先が決まらないことには、面接にさえ行けない。
粘り勝ち…が出来たのも、時代と若さゆえのものだと思う。
家庭保育を紹介され、翌年には正式に公立保育園への入園許可証がおりた。
わたしには、子どもたちを見てくれる両親や親族などいなかった。
面接はことごとく落ちた。
何社受けただろう。
何枚の履歴書が戻ってきただろう。
適性検査など、さまざまな面接先でやらされた。
是非うち欲しい人材だ、検査結果は優秀だ、コミュニケーション能力が高い…等々。
どんな詭弁や美辞麗句を言われ続けてきたかわからない。
断られる理由は一つ。
お子さんが熱出したり具合が悪くなるたびに休まれるのはちょっと困るのでね。
いや、ごもっとも。
後にシングルマザーから言われる、”わたしたち一緒だねシリーズ”を嫌悪する一つの経験となってしまった。
いざというときの預け先が身内にある人とは少なくとも一緒ではない。
そして漕ぎ着いた先は、あるある中のあるある保険屋業界。
夜は民間のバカ高いベビーシッターに預け、運転免許取得するための教習所、週2.3で元義理の姉がママを務める銀座の小さなクラブへ行き、簿記二級取得するため夜泣きする我が子たちを文字通りのおんぶに抱っこで公園を歩き回り勉強する。
リアル二宮金次郎でした。
二宮なのか、コータリング・アコリスなのかは不明。
ほぼ寝ずに
運転免許は取得した。
簿記二級も取得した。
そのあたりで少しだけ気が緩んだのかもしれない。
そして、この時点で貯蓄額は半分以下になっていた。
見ないようにしていた身体の異変がいやらしく顔を出しはじめ、生活をも脅かすようになってきていた。
ちょっと酔いが酷いので編集します。
…多分。