太宰治について一年想ってみた
かつてはなんでも知りたいと思っていた時期もあったかな。
どんな論争ごとにも耳だけ突っ込んで、熱心に聞いたりした。
曖昧でよく分からなくて、純文学、純度の高い文学と認識していた。
よし、私はやってやるぞ。となけなしのエネルギーを差し出して、人間失格に挑んだのが、気まぐれな文学研究の始まりだったかもしれない。
それが、2021年9月26日のことだ。
第一の手記から1、2行ごとに感想を書いていった記憶がある。
しかしその初の試みは完成せずに終わる。
随分と暗い作品だった気がする、残すところ第三の手記というところで私の思考が止まった。
あれから1年とちょっと経過した今もソレは手つかずだ。
単純に苦痛だった。何が?思考が。
でも作者にはもっと興味を持った。
それから一年の間、彼を知ろうと思った。
ヴィヨンの妻、桜桃、グッド・バイ、葉桜と魔笛、秋風記、斜陽。。。
一つ作品を読むごとに、その言葉、文章に深く感動し、涙を流しながら飲み込んだ。関連の映画を見てみたりした。
特に秋風記を読んだ後に、何か自分の中にこみあげてきて、気付いたら一つの作品を書いていた。
太宰治に影響を受けて初めて生まれた作品、「秋彼岸」である。
ネットに載せれるほど立派な作品ではないので、心を許した友人二人にのみ見てもらった。
コレは引用を多用しただけの中身のない作品である。
おもひ秋深く、露は涙の如し。(泉鏡花)
最初の一文からこんな感じだ、今読み返すと恥ずかしくて憤死するかもしれない。
泉鏡花の「芥川龍之介氏を弔う」、からの引用
諸君にはどうか、『秋というと墓参りしか思いつかなかったんだな、可哀想な奴。』とか思ってほしい。
焦燥感、言い知れぬ焦燥感。
これは太宰治に侵食された事実を正しく反映した私の心の叫びだった。
私の心に生まれたのだ。太宰治が。
ここで誤解してほしくないのが、この太宰は、本物の太宰治ではないことだ。
リトル太宰と呼ぼう。
リトル太宰は作品を読む私、完全に受け手となった私の精神が彼の作品を取り込んだことにより生まれてきた精神病の一種といってもいい。
生んだのは私の精神だ。だから、私の主観に基づいた全く新しいリトル太宰という存在が確かに確立してしまった。
これもinfpの運命か、単に私だけが変人で終わる話なのか。。。
リトル太宰は喋らない。じっと苦しみ悶えている。精神を共有してる私は何となく彼の考えが分かる…ような気がする。
そうするといろんな考え方に対して、そうじゃないんだよなあ。なんて思った。
どの考えも何ミリかズレてるのだ。
もちろんリトル太宰も、ソレ過去に思ってた時期あったよ?と私が言うとリトル太宰は蹲りぶるぶる震えだした。
もっとだ、もっと奥深くだ。
そう訴えてるのだ。蹲ってるのにこの薄い皮の下で暴れ回ってる…錯覚をした。彼はとんでもない凶暴性を秘めていたのだ。
しかし、ソレを出さないでぶるぶる震えるだけだ。
ソレはどうしようもないほどの孤独だ。
この一年間で、何回感化されて何回死にたがったか分からない。
孤独で仕方なかった。と思う。
そんな私を見下ろすのは美しい女性だ。
ソレは次の作品の女だ。
斜陽を読んだ時から、私は誰だか知れないお嬢さんに取り憑かれた。
田舎に一人寂しく住む、気高いお嬢さんの話だ。
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