【日記】届かなかった手紙
手元に手紙の束がある。
CDラックの一番下の段に仕舞ったまま眠っている。
もう届かないその手紙を見て「今日も一日が終わったよ」と呟く。
幼少の頃から転勤族の父のもと、私は何度も転校を繰り返した。初めての転校は小学校5年生の時。住み慣れたマンションを去る時は悲しくなかったが、いざ見知らぬ街へ引っ越した時は寂しくて悲しくて何でこんな思いをしなければならいのか、という気持ちになった。
転校する時クラスの同級生が一人一人手作りのプレゼントを作ってくれた。そのプレゼントはぬいぐるみのような力作もあれば紙飛行機を折っただけというシンプルなものまでいろいろある。共通していたのはそこに手紙が添えられていたことだ。プレゼントと手紙はセットだった。私はその真心がたくさん詰まったプレゼントと手紙の山を持ち帰った。また会えるよね。初めての別れ。友達が泣いてくれた。せっかく仲良くなれたのに。また会いたいね。
そして私と友達の文通が始まった。友達との文通の為に近所のおじいちゃんが営む文具屋さんでは全然物足りなくて少し電車に乗った本屋と文房具屋が一体となった大型書店へと出かけた。
季節のレターセットや可愛いキャラクターもの、色合いも紙質もさりげなく添えられているシールも全てが私の心を躍らせた。僅かなお小遣いで厳選したレターセットを買い込んだ。1式に4セットしか入っていないのに400円もするものもあったが。お金のない私はたいてい30枚入りの紙質がペラペラの封筒に100枚入りの5色展開されている便箋を良く使っていた。4セットしかないレターセットはとっておきの人に贈る手紙のために大切に保管していた。
友達との文通は続く。当時は切手の種類というのはそう多くなく、せっかく可愛い封筒を使っても日本郵便の定番の切手がテンションを下げた。しかし記念切手の類も好きで、東京オリンピックが開催された1964年の記念切手は祖母からもらった宝物だった。切手にロマンがあるなんて。当時の私は切手のアルバムを作り、場面場面での切手を保存するコレクターになっていた。
文通は友達だけでなく、雑誌で見つけた見知らぬ人にまで広がっていた。当時文通仲間というものを募集している雑誌や新聞があった。この時代は個人情報云々で今のようにガチガチに規制している時代ではなかった。住所や電話番号が公共の場であちこち見かけていた。それが普通だった。
あるおじいさんとの文通が始まった。70歳の病気持ちのおじいさんだった。私は顔も知らないおじいさんと手紙を通じていろいろな話をした。私が書道を習っていることや、書道教室で賞を取ったことを書くと「一枚送ってくれませんか」と手紙が来た。私は嬉しくて賞をもらった一枚の作品を同封した。何度も書き直した1枚の半紙。「線香花火」の4文字。
そのおじいさんとは結局疎遠になってしまった。あんなに習字を褒めてくれたのに、ある時からパッタリと連絡がなくなった。電話番号も知らない、そのおじいさんの存在はやがて過去となり、思い出さなくもなり、私は中学生になった。
友達との文通はまだ続く。郵便配達のバイクの音が聞こえると「もしかして返事がきたのかも!」と急いでポストへと走る。結局私宛の手紙など何もなかったらその日は落ち込む。ポストは家のドアから少し離れており、雨が降っている時は傘をささなければならない。返事が届いているとその場で開封したくなる気持ちを抑え、ワクワクしながら2階の自室へと駆け上がる。その瞬間瞬間がたまらなく好きだった。
友達との会話はすべて文字を通して行われた。部活のこと、勉強のこと、学校の先生のこと、好きな人とのこと、家族のこと。それらがまとまりのない文章としてそこに存在している。私もその日は友達のことを考えて、どんな手紙を書こうか、どんな便箋を使えば喜んでくれるのか、めくりめく回想をしながら1日を過ごす。たまに4コマ漫画を添えてくれる友達もいたし、明らかに学校の授業中に書いただろうと思われる方眼紙1枚にびっしりと書かれた日々の出来事、あえて縦書きの便箋を好む子もいた。まさに個性が滲み出ていてそのやり取りは私たちの友情を確かなものにしてくれた。
やがて私は中学校でも転校をすることになる。中学校では物理的にも遠い場所へ移動することになった。すぐには会えない距離。だからこそ友達との別れは尚更辛かった。好きで入った部活の友達とももう会うことはないだろうか。通学路を一緒に片道30分かけて一緒に通った友達とも、もうしょっちゅう会うこともないだろう。
最後の日、引っ越しの大きなトラックが家財道具を迎えにくる。私の家は取り残されたままだ。友達が「元気でね。また会おうね」と星がたくさん散りばめられた手紙をくれた。私も小さなハートのシールで綴じた手紙を渡した。新しい住所のメモを添えて。出会いと別れ、そのたびに手紙の箱はどんどんと膨らんでいた。束になった手紙は輪ゴムでくくることなく大きな箱にどんどん入れていった。文字の筆圧や句読点の打ち方、みんなそれぞれの個性があった。ボールペンを使う子もいたり、万年筆のような高級なものを使う子もいた。どの文章もその人の個性が滲み出ていた。
何度も書き直した跡が残った鉛筆と払ったつもりの消しカスが残る手紙、そこには学校でいじめられていると辛い文章が書かれていた。私がいなくなった学校では悲しくもいじめがあった。友達はとても気が弱くすぐに言い返すことができない性格だった。私も大人しいほうだったが友達は何をしても何をされても何も言えない性格だった。こんな思いをしているなんて、先生にはなんと伝えただろう。親に言えない性格であることもわかる。遠く離れた私に何ができるのだろうか。その泣きそうになっている文字を見て思わず電話をした。
電話料金がかかるから長電話はできなかったが、久しぶりに話をした友達の声は泣いていた。か細く鳴いていたように聞こえた。沈黙が続く。でも言葉を遮ることはしない。既に学校に行かなくなっていて2週間。親には学校に行っているふりをしているという。そんな生活を続けていてもバレるのではないか。というより既にバレていたようだ。そのいじめを解決してくれる大人が見つからなかった。私の親が何をしてくれるのだろうか。私自身何ができるのだろうか。
小さな体でいろいろなことを考えた。いじめに関する本もたくさん読んだ。すぐに行ってあげたいし、他の友達にも伝えたい。そんなくだらないことして何になるん、と。覚えたての関西弁で叱りたい。そんな友達との文通は中学3年生になっても続いていた。
やがて希望が見えてきた。そう、高校受験だ。友達は学校の誰もが行かない進学校を目指していた。学校からは片道1時間半はかかるだろう。そして誰も目指すことがない高校に行くため保健室登校をしながら受験勉強を頑張っていた。
私も高校受験はこれといった信念があるわけではなかったが、自分に負けたくないという気持ちだけで塾にも通わせてもらい、夜遅くまで勉強した。冬の寒さにめげそうになる。ストーブの上のやかんはすぐにピーピーと音を立てる。離れていても目標を達成しようね。そう勉強の合間に書いた手紙には書いてあった。高校になったら新しい人生が始まるから。きっと今より良くなるから。自信を持とうね。そう勇気づけていたし勇気づけられていた。
合格発表は友達のほうが早かった。さすが私立だ。友達の猛勉強を知っていたから合格したことはすぐに察知した。中学でもすぐに話題となった。まさかあんな進学校に入る人がいるとは。いじめられていた友達をからかって笑っていた人はもういない。
私の合格発表は3月の卒業式の直前だった。歩いて通える高校、そこで自分の番号を見つけた。安堵というか、やったよ!と友達に早く報告がしたかった。自分だけで何かを成し遂げたことは一度もない。いつも誰かの応援や刺激があった。その友達と高校になってから再会した。すっかり大人びた友達は憧れの制服を着ていた。雑誌でよく見かける制服を着こなしていた。眩しかったし大人っぽかった。
その後高校生活でまた転校をすることになる。人生3度目の転校だった。もう慣れていた。またか、といった感じだった。今度は東京だった。関西から東京。人生で何度移動しているのだろうか。
文通生活は続く。小学校からずっと続く人もいれば途中で連絡が来なくなる人もいる。趣味といってもいいほどのレターセット探しと切手探しはずっと続いていた。高校を卒業して大学に入り、この頃からインターネットが爆発的に進化を遂げる。大学時代に突入するとパソコンで文章を書くことが多くなった。メールアドレスを取得し携帯電話も持った。いつでもどこでも手紙に代わる文章が書ける。メールとは何と便利なんだろう。インターネットができる大学のメディアルームに籠って知らない人とチャットをするようになた。
文通はまだ続く。レターセットの山は管理が出来ないほどになっていた。気がつけば、どの人にどのレターセットを使っていたのかがもはや分からなくなっていた。そのうち管理が面倒臭いと無印良品の茶封筒を使うようになった。可愛いとは言えないその素朴な茶封筒にワンポイントのシールを貼って個性を出す。スタンプを押すことも忘れなかった。糊でびっちり封をしている人もいれば、危うく中が見えてしまうんじゃないかと思うほど小さなシール1枚だけで封をしている人もいて、その個性は様々だった。
手紙が届くとあたたかい気持ちになる。手紙の中にある写真、それはきっととっておきの写真をわざわざ焼き増ししたものだった。プリンターが普及していない時代は富士フィルムのお店に行って1枚30円とか払って焼き増しをしてもらう。1枚のためにお金も時間もかかるが、誰かのために時間を費やすのは気持ちが良かった。
今はSNSの時代である。こんな時代が訪れることを誰が予想していただろうか。LINEを送ればすぐに読んだかどうか「既読」がつく。既読にならなければ不安になったりする。「間」がない。メールもすぐに返さないといけないような風潮だ。情報や気持ちの伝達にはスピードが必要な時代になった。
ミクシィというSNSが流行した時代、私はそのSNSで匿名で日記を書き続けていた。匿名という自分を半分隠した状態であれば、躊躇せず何でも書けるような気がしていた。やがてミクシィで知り合った人とリアルな付き合いが始まる。
SNSはどんどん進化して今度はTwitterなるものが出来た。初めに登録をしたのは2010年だった。あの東日本大震災の前だった。そしてFacebookにも登録をし実名で昔の仲間と繋がることができた。
ミクシィもTwitterもFacebookもインターネットの世界なのに、違う自分を使い分けていた気がする。Facebookは推敲を重ねた文章を書くのに対してTwitterはどうでもいいふざけた140文字を書いたりする。何でもありのTwitterに対してリアルなFacebook。その2つを続けていた。
あれから10年経って今度はInstagramが今のSNSの主流となった。若い子はTwitterやFacebookではなくインスタで情報発信をするとのことだ。インスタさえあれば他は要らない、ということなのか。
今日、私はインスタのメッセージで見知らぬインドネシア人と話をした。ところどころ日本語が通じない。英語があまり得意でない私はGoogleのお世話になりながら文脈を伝えようと努力する。インドネシアの見知らぬ人は日本語を勉強しているらしく、文章にはなっていないが拙い日本語で会話してくれた。昼休みのわずかな時間、なぜ私は知らないインドネシアの人と話をしているのだろう。ハッシュタグというのは凄い力を持っている。時代はどんどん変化していった。
手紙の数々は私の大きな箱に眠ったままである。私だけに向けられた手紙は捨てることができない宝物だ。引っ越しが多い私の荷物の大半は手紙だった。思い出のモノ(卒業アルバムや制服など)は全て捨ててしまったのに、私宛の手紙はいまだに捨てることができない。その当時の消印を見ると「いつどこで」投函したのかがわかる。私の手紙はもう捨てられただろうか。それともどこかにしまってくれているのだろうか。
送りっぱなしの手紙、送れなかった手紙。いまだに手元に残るレターセットとシール。その中の好きなものを1セット選び私は手紙を書く。
「元気ですか。どうしていますか。またバレンタインが来たよ。」
4個入りの小さなチョコレートに一言添えた手紙を毎年書き続けている。決して読まれることのない手紙。これからも読んでくれないことがわかっている手紙。その手紙を数えると今年で16通になった。
もう届かないその手紙を見て「今日も一日が終わったよ」と呟く。
春が近づいている。その手紙をそっとCDラックに仕舞う。また明日もいい日であるように、そうであるように。
願っていてほしい。遠いところから。もう会えない距離にいるけれどまた会えると信じているから。
ありがとうございます!あなたに精一杯の感謝を!いただいたサポートはモチベーションアップに。これからの社会貢献活動のために大切に使わせていただきます。これからもどうぞよろしくお願いします。