Christmas不要論

 Christmasには良い思い出がない。

 子供の頃、僕も一応サンタさんの存在を信じていた。
 或る年、僕は将棋の盤駒を請うた。サンタさんにお願いしておくと父親は言い、当日の朝、枕元に置いてあったのは「黒彫」の駒であった。将棋好きでなければ読めない、略字が彫ってある駒だ。
 僕は、このプレゼントが気に入らず、サンタさんに失望した。空気を読めば判別は出来たし将棋も出来たが、将棋には身が入らず、僕はこの駒をぞんざいに扱った。何故か玉将に歯型をつけ、絵の具で汚し、香車を1枚失くす始末であった。谷川浩司十七世名人のエピソードとは月とスッポンの違いがある。これを見て、両親が心を痛めたのか、はたまた安い駒にしておいて良かったと安堵したのか、未だ確かめてはいない。

 Xmasケーキは生クリームで胸焼けがするため食べられず、毎年自分を除く家族だけで等分されていた。自分は上に乗っているサンタさんを戴いてみたものの、ただの砂糖菓子で必ずしも美味しくなかったので、ケーキ全体を諦めるしかなかった。その代わりに、ケン○ッキーフライドチキンを多めにもらう事でその悔しさ(?)を打ち消していたのである。

 いつしかXmasケーキは食卓に出なくなり、フライドチキンも出なくなり、Xmasツリーも出なくなった。ツリーは小さなもので、それなりに飾りもついていたのだが、ある時から電飾のプラグをコンセントに挿さなくなった。電気代が勿体ない、と親が言い出したのだ。
 僕は、それなら別にXmasだからといって、わざわざ出さなくても良いのでは?と提案したが、これがあっさり採用されたのである。これに端を発したか、金が掛かる様々な年中行事は家庭内で次々に廃止され、”特別な日”はなくなっていった。

 中学校時代から、自分はお年玉や小遣いに使い途がないから、と自主返納するようになった。そのため、実は当時流行ったゲームは殆どやった事がない。購入出来なかったのだ。コントローラのボタン配置が分からないため、偶にゲームを触らせてもらっても抑操作が出来なかった。
 その代わりのささやかな楽しみは共用PCでのインターネットであったが、長時間過ぎる、及び寝る時間が短くなる事を理由に咎められる事が頻発していく。ガ≠使を観るためだけにそっとTVをつけた積もりが、夜間のパートに出ようとする母親に見付かり、私は少しでも頑張ろうとしているのに、と涙ながらに怒鳴られた事もあった。

 大学受験に失敗し、再挑戦するには予備校に行ってノウハウを学びながら勉強しなければならないだろうと考えていたが、働いてもらわないと困るとの家族の意向により、両立できる環境に飛び込む決断を迫られた。それを機に家を出て関東へ単身で飛び込む事になったのだが、それはまた別の話である。
 世間様の様々な年中行事は、最早自分から完全に切り離されたものとなった。忌避感すら抱く様になったのである。「付き合いが悪い」「記念日を大切にしてくれない」「折角のムードが台無し」…色々言われたが、自分の生活にそぐわない行動をする訳にはいかなかったのである。

 こうして、「行事」「流行」等といった”経済を回す為の圧力”に対してアレルギー反応を示すケチに成り下がったのである。だが、世間に購買を強要される様な行事には冷笑的でいられたが、個人的な記念日(誕生日や大切な人との記念日)といったものに対して、ネガティブな感情を抱く事は難しい、と気付かされたのだ。別に特に金を使わなくても、ささやかに祝う事は出来る。それは「幸せな事」と言って差し支えないのではないか…と。

 Christmasは要らない。正直、祝う理由がない。Christmasの為だけに金を使う動機もない。その代わり、他に「大切な日」が出来た。これに対する特別な感情は持っておきたい。これだけあれば、充分幸せに生きられるだろうから。
 但し、僕に対してどうしてもプレゼントを贈りたいという事であれば、それを妨げるものではない。

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