おじいちゃんのこと
昨年11月、おじいちゃんの前立腺がんが見つかった。すでに肺にも転移。余命3か月、もって半年と父から聞かされた。
ショックで声が出なかった。
でも、おじいちゃんをみると、自分で動けて食欲もある。小さい頃から一緒に過ごしたおじいちゃんが、本当にいなくなるのか。
まだ信じれない自分がいた。
しかし、お医者さんの申告通り、年を明けるとあれよあれよと状態が悪化。自力では動けなくなり、4月になると会話も難しくなった。
最期の一週間は、話しかけたら出てくる涙が、唯一の反応だった。
そして、4月25日、自宅のベッドで家族に見守られながら、息をひきとった。絵に描いたような、眠るような表情だった。
家族に泣く姿を見られたくなく、ひとり外に出た。雲ひとつない晴天。正午の鐘が鳴った。
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4月26日
納棺。一人ずつ順番におじいちゃんに声をかけながら、手足を清めた。ぼくの番が回ってきて、おじいちゃんの手をとった瞬間、いろんなことがフラッシュバックした。
おじいちゃんは毎朝、縁側で新聞を読むのが日課だった。小学生のころ、おじいちゃんの横に座ると、太い指で文字をなぞりながら、スポーツ欄を読んでくれた。それ以来ぼくは、すっかりドラゴンズファンだ。
おじいちゃんの、ぶ厚い手が好きでよくさわっていた。その度に、「明嗣、俺はこの手で100万円稼いだんや」と豪語し、数年後には「この手で1,000万稼いだんや」と金額が上がり、晩年には「1億稼いだんやぞ」と、跳ね上がった。
とにかくポジティブで、自信満々。功績・勲章が大好き。何度も同じ話を聞かされ、嫌気がさす時もあったけど、話しが大きくなりすぎて、ファンタジー化されたことは、今思うと微笑ましい。
そんなおじいちゃんはもうしゃべらない。手も固く冷たくなってしまった。それは”死”に直面した瞬間だった。
物事には終わりがある、とおじいちゃんが身をもって教えてくれた。
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4月27日
生前おじいちゃんはよく「俺の葬儀は家でやれよ」と注文していた。
「今の時代自宅葬なんて、誰もやらんよ」と返したが、それが思わぬ形で実現する。
昨今のコロナ感染を恐れた自粛ムード。それにより、半ば強制的に自宅葬を選択せざるを得なかった。
参列者は、家族とごく身近な親戚のみで、一般の方は基本お断り。どうしてもお参りをしたいという方には、出棺の時間だけをお伝えし、好きな時間に弔問いただく形にした。
そうしたら、何が起きたか。
お付き合いの弔問がなくなり、心の底から会いたい方だけがくる、見事な”およろこびさま葬”になった。
おじいちゃんは、コロナのことを全く知らずに旅立っていった。でもそれが、本人が希望していた自宅葬を実現させ、さらには、この形が一番理想と思わせるほど、ハートフルな時間を過ごせた。
おじいちゃんは思ったことが現実になることが多々あった。最期もその力を発揮した。
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4月28日
葬儀開始1時間前、父に呼ばれ「お前、これ読め」と弔辞を渡された。
直前すぎるわ、と思いつつ、おじいちゃんの言葉を思い出した。
「葬儀の弔辞は、明嗣が読めよ」
それを覚えていた父が、ほぼ読むだけに仕上げた弔辞を、時間ぎりぎりに渡してきた。これも父なりの演出だろうと、黙って受け取った。少し自分の言葉を加え、何度も声に出して練習した。
葬儀開始。頭の中は弔辞でいっぱいだった。あっという間に時間がくる。みんなの前に立ち、読み始めようと思った瞬間、声が出なくなった。そして、自分でも制御できないほど、涙があふれてきた。
ただただ泣いてる姿を、親戚の前で晒した。
おじいちゃん、ぐだぐだの弔辞でごめんよ。
昼食を終え、お骨拾いに。
骨にも癌が転移したから何も残っていないかもね、と家族で話していたが、予想に反して、太い骨がしっかりと残っていた。さすが、激動の昭和を生き抜いたおじいちゃんの骨はたくましかった。
圧巻だったのは喉仏。
職員さんが、「こんなきれいな形で残っているのは珍しいです。」と、丁寧に拾い上げてくれた。
「どうや、りっぱなもんやろ」
雲ひとつない空から、声がきこえる。
最期までおじいちゃん節は健在だった。