劇場版まどマギ(叛逆の物語)を観て思ったこと ~悪魔はなぜ生まれたか~
1.はじめに
今更ですが、先日まどマギのアニメ版と劇場版を完走してきたので感想を書き留めたいと思います。
外伝は一つも読んでいないし、他の方の考察とかも殆ど見ていないので、頓珍漢なことを言っているかもしれません。全て私個人の感想です。悪しからず。
当然ネタバレ有りですので、嫌な方はブラウザバック願います。
2.アニメ版について
劇場版の感想を語る前に、まずアニメ版を観て私がどう感じたか触れておきたいと思います。Twitterで呟いたことのコピペです一回見ただけじゃ分からないような用語やら描写やら伏線やらがいくつも散りばめられてて、まだまだ考察できるところ沢山あると思うんですが、簡単に書けることだけ書きます。
2.1.作品のメッセージ性
この作品には沢山の想いが込められていると思うんですが、この物語を通して伝えたいメッセージがあったとするならばやはり”希望”とか”慈愛”になるんじゃないですかね。
安っぽい言葉に聞こえますか?
そう、人間にとって本当に大切なことって、すごくありふれた、安っぽい言葉で表せてしまうんですよ。でも人間は不思議なことに、一度覚えたそれを簡単に忘れてしまう。分かったフリして、簡単にそれを切り捨ててしまう。
大切なのは優しさだとか愛だとか、自分を大切にしなさいだとか、諦めちゃだめだとか希望を最後まで持てだとか、よく言いますよね。でも実はそれってとても難しいことなんです。というか、それを完璧にこなすことなんてそもそも人間には不可能なんです。
だから、それが出来たまどかってすごく特別なんです。
だからまどかは神にもなったし、円環の理という独自の用語で表現されるに至ったわけです。
厄介なことに、人間には感情や欲望といったものがあって、ズルもするし裏切りもするしお節介だってするし、人より上に行きたいと思うし自分の思い通りにいかないとイライラするし。なんだかんだ人は人と傷つけあって争い合って、自分のことも傷つけて、いつしか何もかもが嫌になる。
人間の身勝手な願い、不幸、欲深さ、裏切り、保身、嫉妬、恐怖、渇望と絶望、そうした一人一人の感情が生み出す辛すぎる現実を沢山見てきた。それでも人に笑顔を、希望を失なってほしくないという切実な願い。
それこそが、この作品のメッセージ性なのではないでしょうか?
2.2.誰一人として無下にしない
次回予告に使われるセリフはそのどれもが重要なセリフで、そのキャラクターなりの人生観が母親や先生達のちょっと変わってるようにみえて、人生経験から導き出された真剣で立派な考え方。どんな人のどんな行動も、子供も大人も関係なく、誰もが自分の経験から精一杯考えて導きだした答えなのだと、尊重してくれているように思うんですよね。
各々葛藤の末に行き着いた決断や行動が、残酷な未来を招くという一見救いようのない物語。(大体インキュベーターのせい)でも見ていて思ったのは、そういう不幸が起こる度に必ず誰かしらがフォローを入れてるんですよね。3話のマミさん然り、8話のさやか然り。 作中に登場する全てのキャラが何らかの形で救われている。
そうした一つ一つの演出が、「誰一人として無下にしない」という気遣いのように感じられました。
2.3.悲しみと苦しみの尽きぬ世界で
勝手に抱いた希望が、思わぬ所で違った結果を招いて、それが後悔や憎しみに変わることなんて人間にはよくあることで。人間って本当に分かり合えないし、自分ではどうしようもない現実をいくつも突きつけられるけど、それでも自分に力があるのならそれを人の為に使いたいって思いは本当に素敵だと思うし、私もそうありたいと思う。
3.劇場版について
お待たせしました。劇場版の感想です。
とはいっても、今回はタイトルの通り「ほむらが何故悪魔になったか」だけにフォーカスを当てて語りたいと思います。
いやまあ、他にも良いなと思ったところ沢山あるんですけどね!?
ほむらの思い描く日常とかほむらとさやかの対峙シーンとかさやかと杏子の共闘とかインキュベーターのkzさとか
3.1.ほむらの精神状態とその結末
アニメ版のほむらっていつ魔女になってもおかしくないほど精神状態が危ない状態でしたよね。ワルプルギスに追い詰められた時も、魔女化する寸前までソウルジェムが濁っていました。
しかもその結末はほむらだけがまどかのことを覚えていて、死ぬまでまどかに会うことは叶わない。ほむらが守りたかったまどか自身もまた、一人で自分の戦いを戦い抜かなければならない。(まどか自身はみんなのことが見えてると言ってましたけどね。しかも劇場版では鞄持ちまでついてきたし。)
ほむらは最後まで「まどかに辛く苦しい思いをしてほしくない」「まどかと共に平和に生きたい」と、そう願っていたはず。
ですから、今回のほむらの魔女化については映画終盤のインキュベーターの解説を聞けば当然納得のいくものでしたし、寧ろインキュベーターにも殺意が湧いたはずです。
誰にも気持ちを伝えられず一人で戦うことって、
実際ものすごく苦しいことなんですよ…
だから!
ほむらも、まどかも。
苦しさを背負うんじゃなく、みんなが幸せになれる終わり方を、私も他の視聴者の方々も、望んでいたのではないのでしょうか?
…しかし、アニメ版のラストで満を持してまどかが作り上げた”円環の理”を破壊し、ほむら自身は悪魔となること。こんな結末は誰が予想し得たでしょうか?
このような結末、誰が望んだんですか?
なんでほむらはまどかに救われてハッピーエンドじゃだめだったんですか?
こんな結末で誰が幸せになるんですか?
さやかちゃんの気持ち考えたことあるんですか?
まどか自身、そんなこと望んでいたと思いますか?
いいえ。
これはほむら自身が選んだ、ほむらにとっての理想の世界なのです。
誰もほむらが選ぶ世界を、否定することはできません。
3.2.「優しい世界」は作れない?
まどかの優しさで、インキュベーターの野望を食い止めて優しい世界を作りあげるのがまどマギじゃなかったのか!!
話が違うじゃないか!!!
…っていうのは早計ですね。
そもそもアニメ版最終話時点で、「魔女がいなくなってもこの世界から憎しみや悲しみがなくなったわけではない」「魔獣という新たな概念が世界を脅かしている」ということが提示されていました。
だからそもそも最初から、まどかの想い・魔法をもってしても「優しい世界を作ること」は不可能だったんですよ。
3.3.じゃあこの作品の意図って?
そうだとしても、アニメ版であんなに一生懸命だったほむらが最後に悪に染まってしまうなんて、悲しすぎるよ!!!
ええ、私もそう思います。
でも、ちょっと待ってください。この結末を描いたからには描いたなりの”意図”があったと思うんですよ。じゃあそれは何か?
私は、
ほむらもまた人間の一人に過ぎなかった
ということだと思います。
この作品のタイトルってなんでしたかね。
そう、魔法少女まどか☆マギカです。
まどかは紛れもなくこの世界における”神”です。
魔法少女としての素質は勿論、まどかの根幹にある”優しすぎる性格”を見てもそれは頷けるし、それ自体はアニメ版最終話でも名言されています。
じゃあ、人間ってなんですか?神とどう違うんですか?
私の考えを端的に申し上げますと、「身勝手で薄汚い感情・弱さ・不完全さ」を持っている点です。それ自体は例外なくすべての人間が持つ人間の性質だと思うんですよ。
まどかのことが誰よりも好きで、
まどかのことを誰よりも守りたくて、
まどかの為に何度も世界をやり直し、
まどかのことを唯一忘れることなく
まどかのことだけを考えて生きてきたほむらだからこそ、神となったまどかを唯一穢すことが出来たんですね。世間にありふれた醜く歪んだ「愛」によって。
この後で語るんですが、この作品どこかキリスト教を示唆するような要素がいくつか見られるんですよね。そこで、キリスト教的な考え方を取り入れて説明をしましょう。(参考:アガペーとエロスの違いを分かり易く教えてください。 - アガ... - Yahoo!知恵袋)
まどかの愛は見返りを求めない、全ての人に平等に与える完全な愛、言うなれば「アガペーの愛」です。(普通の人間にはない感情です)
対してほむらの愛は自分の損得を考えたうえで、相手や他人の都合を考えない世間一般に言われる愛、言うなれば「エロスの愛」です。
エロスの愛で、アガペーの愛に叛逆してしまった。
相手を欲する愛というのは、一途なようで、歪んでいる。
これこそがこの作品の結末の意図ではないでしょうか。
4.キリスト教との関連性
前述の通りこの作品、キリスト教に関連する言葉が度々出てくるんですよね。
・杏子の父親
何話だったか忘れましたけど、杏子はさやかに「杏子の父親は教会の聖職者だが、より多くの人に教えを説くために、時代に合わせた別の表現を行った」ことを語っています。(聖書は言葉が古く堅苦しいので、子供は勿論、大人も読むのが難しいんですよ。だからリビングバイブルという現代の言葉に合わせた優しい聖書も出ています。こういうのも最初は批判があったのかもしれませんね)
・魔女狩り
多分沢山の人が考察されてると思うんですけど、中世ごろからキリスト教界隈には「魔女狩り」って言葉が存在しています。
私自身詳しくはないのですが、ざっっっくりまとめるとこんな感じ。
つまるところ、魔女は根絶すべき処罰の対象だったってことですね。しかも公的な裁判は行われず、ほぼ私刑。悪魔と契約したかどうか、どうやって証明するんですかね
・黙示録のラッパ
劇場版の冒頭、いつも変なこと言ってるまどかのクラスの担任が「もうすぐ世界が終わりを迎える、気を抜いてはいけない」とか言って騒いでましたよね。実際ほむらが円環の理を壊すことで世界は作り替えられてしまったので、このセリフはその伏線になっている訳です。
その話の最後、転校生としてほむらを紹介する直前、先生は「黙示録のラッパが鳴る日はもう間もなく」というようなことを言っていたのを覚えています。黙示録とは、新約聖書の終わりに書かれる「ヨハネの黙示録」のことで、そこにはこの世の終わりについて書かれています。その中に、「神の使いがラッパを吹く度に封印が一つ解かれる。7つ目(最後)の封印が解かれるとき世界が終わる(※意訳)」という内容があります。
参考:黙示録のラッパ吹き - Wikipedia
そして、魔女化したほむらはラッパのような楽器を持っていました。
これもあまりよく分かってないですが、多分関係あると思います。この手で世界を終わらせてやろうという意思みたいな何か。(雑
4.まとめ
まどかはその手に宿した力と、性格と、優しさ故に神になり得た。
でもほむらは人間。その感情も、突き詰めれば悪魔。
…ずっと一緒にいたい、まどかに苦しい思いをしてほしくない。
そんな気持ちがどうして悪魔になっちゃうんですかね。
こんなに悲しいことはないし、それこそまどかも望まない結果だったことでしょう。でも、人間とはそういうもの。
去年制作が決定という劇場版まどマギ「ワルプルギスの廻天」。
一体どんな展開が待ち受けているのでしょう。あんな叛逆見せられちゃもうどんな展開が来てもおかしくないと思えてしまうのですが、実際の映像はきっとまた私達の想像の更に上を行くんでしょうね…(ハードル爆上げ)
まどか、お願い。ほむらちゃんを救って。(切実)
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