【キリスト教】挫折から生まれるもの
※※※※※※ 注 意 ※※※※※※
この記事は主にクリスチャン向けの内容になっています。
そうでない方は雰囲気でお読みいただき、自分には合わないと感じた場合はブラウザバックいただけると幸いです。
はじめに
”希望のない詩”
ある時、こんな詩を耳にしました。
「生きること」は生半端なことではありません。
自分の欲求、過ち、無力さ、不甲斐なさ、悲しみ、苦しみ、怒り…様々な感情と向き合いながら、社会の責任・モラル・マナー を 全うしなければなりません。
絶えない”悩み”
だから世の中には沢山の悩みが溢れています。誰もが各々、自分の悩みを抱えて生きています。重みは違えど、何かしらの悩みを。
本人の中で無視できるほど軽度の悩みであればすぐには対処しなくても良いでしょうが、生活に支障をきたすような悩みは一人で抱え込まず、協力して解決したいものです。
しかし、そういった悩みは中々人に言うことができません。
もし相手に理解されなかったら。
もし相手に嫌われたら。
もし相手を悲しませたら。
もし相手に無理をさせることになったら。
そもそも自分のことで相手に迷惑をかけたくない。
価値観の違う相手に悩みを打ち明けるということは、それ以上に傷つくリスクを伴う行為です。
そんな世の中で、悩みを持たずに生きる方が無理だと私は思います。それは無理だとしても、どうして私達クリスチャンは、そんな悩みに寄り添い助け合うことが出来ないのか。どうすれば神の救いがそんな人たちにも届くのか。そんなことを最近私は考えていました。
寄り添うためには?
一方で人は時に、誰かに助けられておきながら、その助けに甘えて、してはいけないことまでしてしまうことだってあります。
例えば、「今まで一度も学校を休んだことの無かった生徒がある日風邪で休んだのを境に、欠席日数がみるみる増えて学年末には留年ぎりぎりになってしまう」という現象があります。
これは、本人が学校に行く理由の最も大きい理由になっていた「休んではいけない」という自戒の念が、風邪で休んだことで解けてしまうことが大きな要因になっています。学校に行く目的も「みんなに合わせて行っていただけ」で、誰とも話すことが無かったから曖昧だったのでしょう。可哀想な例です。
自己中心的で、優位に立ちたがる。他人をうらやむ。怠けたがる。ずるをしたがる。そんな罪の性質が、時代・場所を問わず、変わらず私達を苦しめています。
救いの無い、まるで牢獄のような世界で。
私は神に救いを求めながら、私に出来ることは無いか考えながら、日々を生きています。その中で感じたことを、今日はお話ししたいと思います。
ep0.壊れた信頼関係 (体験談)
大人達の発言
私は小さい頃から、私だったら絶対にしないのに、と思うような怒り方をする大人達を何人も見てきました。
子どもの気持ちに聞く耳を持たず、否定や批難の言葉ばかりを向ける大人。感情に物を言わせ、恐怖で支配しようとする大人。自分がこんなにやってるのにあなたはどうして、と罪悪感を煽る大人。事実関係を知ろうとず、状況証拠だけで事を片づけようとする大人。
でも大人は間違ったことなんて言っていない。間違っていたのは私の方だった。
でも言い方一つで相手への信頼関係って変わるじゃないですか。間違ってしまったとしても、優しさを持って接することで、「次は間違わないようにしよう」って思ってくれたら、それでいいじゃないですか。相手を恐怖で抑え込んでしまったら、本音で喋れなくなって、何が本当の問題だったのか分からなくなってしまうじゃないですか。
だから私は、人と話すときは少しずつ距離を近づけられるようにして、極力相手が本音で喋れるような接し方を心掛けてきました。…心掛けていた、つもりでした。
私の過ち
しかし振り返ってみれば私は、何回もこれら大人のやってきたことを、繰り返してしまっていたのです。ある時は相手の目標達成の為に、自分の思う理想の道筋を頭の中で考えました。その為の準備を沢山しました。でもそれは相手の思うペースややり方を全く考慮していませんでいした。結局私がした準備は無駄になり、私はそのことで相手を責めてしまいました。
またある時は、相手を悲しませたくない一心で、いくつかの小さな無茶を繰り返していました。私はそのことである時相手に罪悪感を与えてしまいました。
どれも、私が大切にしていたはずの「相手との信頼関係」を大きく壊してしまうものでした。
勿論、感情に任せてものを言って、相手を傷つけるようなことがあってはいけません。でもそうでなくとも、人間と言うのは無意識のうちに心に支配されて思わぬ言葉を口に出してしまうことがあります。
同じ過ちを犯さないために、どうすれば良かったのかマタイの箇所から学びたいと思います。
ep1.善行の教えの真意
善行は見えないところで
イエスはバプテスマのヨハネに洗礼を受けると、ガリラヤの全土を巡って宣教を始めました。そこでは、多くのユダヤ人、パリサイ人、律法学者たちがしていた間違った考え、教えを改めるように言いました。
偽善者が受け取っている報いとは、「周りの人からの目線」のことです。あの人はなんだか真面目そうだな。あの人はなんだか熱心だな。関心するな。そういう他人からの評価のために、善い行いや祈りをささげてしまっているから、肝心な神からの報いを受けられないのです。
ここで「受け取っている」は、原文では「領収書を書いてしまった」という意味なのだそうです。あなたの好きなお金を、もうすでにあなたは受け取ってしまったのだから、神からの愛は受けられないよ、という意味です。
よくある勘違い
私もそうなのですが、この言葉を勘違いして受け取ってしまうことが多々あります。確かに神は、日の目を浴びない努力を認めて、褒めて遣わせて下さるお方です。
だからといって、人目に付かないところで善を行うことに執着していては意味がありません。大衆の前で貧しい異邦人が病気に苦しんでいた時、私達ははどうするべきでしょうか。イエスは必ず手を差し伸べるはずですよね。
また、善行が自己満足に終わってもいけません。その人のため、といいつつその行為が自分を安心させるためであったり、相手からの評価を得るためであったりしてはいけないということです。
「そうすれば神は評価してくれるだろう」「相手が満足してくれて嬉しい」などという短絡的な思考や上辺だけの行動では、当時の律法学者たちと何も変わりません。
私達は神の報償を受け取ることを、第一に考える。それこそが私達が救われるために必要なことなのです。
ep2.赦しの上限
ペテロの問いとイエスの応答
更にイエスはペテロに「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。」と教えられました。
王様と家来の例え話
「赦すこと」がなぜ大切なのか、王様と家来で例え話をされました。
人を赦す王とは、神のことです。一人では背負いきれない、赦されざる罪を持った私達人間に対し、無償の愛と憐れみを持って赦そうとしておられるのです。それがイエス・キリストの十字架による贖いです。私たちはその事実を深く受け止め、同じ憐れみの心を周囲の人たちにも向けていかなければならないのだと、イエスはそうお教えになれらました。
必要なのは、神を頼ること
ところで、家来はなぜ仲間のことを赦すことが出来なかったのでしょうか。王様に少しでもお金を返したかったのでしょうか?いいえ、この家来は王様の慈悲によって縛られていたものが無くなったのです。仲間を牢に入れなければならない理由にはならなかったはずです。
これは人間の性質をよく表していると思います。
私達は、自分が日頃からどのような救いや恵みを受けているのかを忘れて、感情に身を任せてしまうことが多々あります。
先ほどの私の体験談もそうです。
そもそも、相手と共にいられること、そして相手に頼り頼られる関係であったこと。そのどちらもが私にとっては大切な恵みであったはずです。なのに誰にも相談をすることなく行動を選んでしまったのは自分です。それを相手のせいにするのはお門違いですし、何より恵みをいただいている神に失礼です。
私達があるべき姿
”できない”と”やらなくていい”は違う
「主の祈り」を見てください。
神は私達が本当に必要としているものを知っておられます。だからこそ、この主の祈りを私達に祈るように命じたのです。それは神に仕える者としての模範となる生き方です。神によって支えられて生きている私達がとるべき姿勢です。
私達はそれを忘れてはならないのです。忘れてはならないはずなのに、心のどこかで「これくらいはいいだろう」と油断してしまうのです。
次の箇所にも同じことが言えます。
これも私達がとるべき行動の模範です。でも私達は中々守ることが出来ません。「流石にこんなことをしていては人格が壊れてしまう」「神様だって怒ったりする」「出来ないと分かっているならやらなくてもいいじゃん」
…そういうことではないのです。
私達があるべき姿を正しく認識して、自分に足りないところを見つけ、それを悔やむ。そして神の慈悲深さを知る。感謝する。おそれる。頼る。これが信仰の根底にあるべきなのです。勿論これらのことをこなそうと”頑張る”必要は無いのですが、”やらなくていい”と思ってしまうと、人間はすぐに間違った方向へと流れてしまう、ということです。
人の振り見て我が振り直そう
律法学者たちは、イエスが「言う事には耳を傾けてよいが行動を真似してはいけない」と言われたように、権力やお金のために悪い事ばかりをしているので、見習うことなど何もないと思うことがあるかもしれません。
しかし、先ほども申しましたように、人間はどれだけ頭の中で分かっているようなことでも間違ってしまうことがあります。というより、無意識の内に沢山の間違いを犯しているのです。
イエスのことを3度知らないと言ったペテロは後に、より強固な信仰へと変えていかれました。それは己の弱さを受け入れ、主に依り頼むことを選んだからにほかなりません。
だから私達もまた、知ったつもりの個所であっても何度も聖書をよく読み返して、彼らと同じ過ちを犯していないか自ら見つけに行かなければならないと常々思います。
まとめ
「挫折」と「救いの証」
冒頭で読んだ歌詞のうちの「生きている限り救われない」
これはある意味正しく、ある意味では間違っていると思います。
確かに人は生きている限り罪を犯し続けます。それは人間には抗うことの出来ないものです。
しかし神はそんな私達に、イエス・キリストという救いの道を用意してくださいました。神は、私達を赦し、私達を救い、私達を導こうとされておられます。何者にも勝る心強い救いです。それを信じることで、私達は罪を犯しながらも、赦されることができるのです。
私達自身の中に眠る罪が、それを拒みます。目の前のことに執着し、神に背き自分の好きなように生きようとしてしまいます。その罪に対し、私達は悲しいほどに無力です。
でも、その弱さを知って初めて私達はその罪と向き合うことが出来るのです。
私のこれまでと、これから
これから私は何度間違うのか分かりません。恐ろしくて堪らないほどです。既に恥じるべき過ちも沢山犯しています。しかしこんな私にも、神は変わらず片時も離れることなく、寄り添ってくださるのです。その最もたる証拠は、私達がこうして変わらずいつも通り、皆で支え合って生き、日曜日に教会に集い、皆さんとともに神を賛美することができることではないでしょうか。
だから、私は愚直に神に祈り続けたいと思います。
私がこれ以上誰かを傷つけることのないように。
不完全な私であっても、私の口を通して一人でも多くの人が救われるように。
最後に、神の救いの象徴でもある、マタイ5:1-12を載せてこの記事を終わりにしたいと思います。長々とお読みいただきありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?