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丁寧な暮らしの先に見える不動の自己
この年末年始、実家にて考えさせられる出来事があった。
俺の父親は今年63歳になるが、再任用という形でまだ働いている。早朝6時に起きて7時前には家を出る生活をしている。(早すぎるだろ)
父親の健康を思うと「無理しないでほしい」と思う反面、元気に仕事をしている姿を見ると、息子として安心する面もある。
また反労働を掲げる我が身としては、自分の父親が朝早くから一生懸命に社会のために仕事をする姿は、正直まぶしすぎて胸が痛い。
「俺は家にこもって何をしてるんだ?」
「社会のために外に出て働くべきじゃないか」
と自分を責めたくなる。一度掲げた価値観をゆさぶられる。
(しかし俺は労働はしない)
そんな60を超えても元気に働いている父親の「生活に対する姿勢」に今回とても感じるものがあった。
丁寧に暮らすこと
父親は起床後、重たい布団を毎回あげ、綺麗に布団を畳んで重ねているのである。冬場であるため、掛け布団もいくつかあるので正直その作業というのは大変面倒なはずだ。
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俺ならやってない。
どうせ夜も寝るのだからと、布団はそのままにしておくだろう。もし畳むとすれば掃除をするときぐらいだろう。
しかし父親によって綺麗に畳まれた分厚い布団を見て考え方が変わった。
それ以来
布団で寝た際には布団をきちんと畳むようにしているし、ベットにて起床後はシーツと布団を整えきちんとベットメイキングをするようになった。
なぜなら布団が美しすぎたからである。
その時見た美しさの感動は過去に経験した懐かしさであった。
「あ、あれだ。」
思い出したのは過去に見た映画「PERFECT DAYS」である。映画を見た時に感じた美しさと、父親によって畳まれた布団に全く同じ感動を見たのであった。
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トイレの清掃員として働く男の淡々とした日常の風景が切り取られているのであるが、その規則正しい丁寧な暮らしを見て、大自然を見たときのような美しさを感じたのである。
この映画、そして父親によって畳まれた布団の美しさから学んだことがある。
人間の品性は丁寧な暮らしの先に宿る
ということだ。
父親はエネルギーに溢れて仕事をしている。子供が大好きで教職員という自らの天職に身を置き、日々労働に励んでいる。
そんな父親のバイタリティや仕事に向き合う姿勢の土台には、「布団をきちんと畳む」という丁寧な日常の延長にあると思った。
そもそも俺が嫌いな奴を思い出してみると、全員丁寧な暮らしができないような奴ばかりである。
どっかの威張り腐ってキャバクラ通いの社長然り。
だらしないサラリーマン。
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いや、今の腐った内閣についてもだろう。
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こんな連中の中にどれだけ「毎朝布団を畳む」という人間がいるだろうか。
ブサイクなつらぶら下げて、口と肩書きだけは一丁前。
しかし仕事に誠実さは見られず、1つ1つの所作についても品性が伴わない。
日常において丁寧な生活ができていない。いい加減にしか家事を行っていないがために、彼らの外見は醜く、仕事も誠実に行えないのではないかと考える。
(俺の独断と偏見である)
過去に出会ってきた優秀な人たち、それは仕事ができるという意味ではなく人間としても素敵な方々はみんな自分の生活の基盤がしっかりしていた。それは経済的な意味ではなく、家事などの生活に伴う雑務においてだ。
ビジネスマンよりライフマン
優秀なビジネスマンになるための情報が溢れ、多くの人は優秀なビジネスマン(資本主義の奴隷)になることに必死である。
「いかに優秀か」
「いかに他社より優れているか」
「いかに金が稼げるか」
「どんな肩書きを持っているか」
義務教育という名のサラリーマン養成プロジェクトによって作り出された考える力の欠如した大人たちが、資本主義というゲームを無条件に受け入れ、「優秀なビジネスマン」でいることに必死である。
しかし人間としてまず最も大切なことは優秀なビジネスマンではなく、優秀な"ライフマン"でいることではないだろうか?
自らの生活を整えることもできないくせに、顧客と人間的な信頼関係を築くことができるだろうか?
同僚とはどうだろう?上司とは?
上っ面のビジネススキルを学んだところで、自らの生活に誠実に向き合っていない人間が、どんな価値を生み出せるというのだろうか?
俺は甚だ疑問に思う。
ビジネスを行うにしろ、その土台には人間力が必要になる。その人間力自体を磨くことは、日々の暮らしを丁寧に行うことだと俺は考える。
・朝起きたら布団を畳む
・ベットメイキングを行う
・洗い物はためない
・洗濯物はきちんと畳む
・毎日掃除機をかける
・元の場所に戻す
・ゴミを溜め込まない
・冷蔵庫は常に綺麗にしておく
これら生活をしていく上で必ず発生する雑務に対して、どれだけ誠実に向き合うことができるか。優秀なライフマンにまずなることことそが人間としての大きな土台になるのである。話は全てそこからだ。
優秀なライフマンとして生活の基盤が整い、綺麗なエネルギーを持てるからこそ誠実な仕事ができる。趣味や習い事に精を出すことができるのだ。
俺はそう考えている。
仕事なんでできなくていい。ただ人間として日々の暮らしをしっかりと行い、人生に溢れる小さな美しさに対して心を動かせる人間に魅力を感じるのである。
「今季売り上げ3億!稼げ!!年収1億ないやつはゴミ!」
こんな思考停止の薄汚い顔をぶら下げた資本主義のブタが一番嫌いな人種である。
そんな俺の独断と偏見であるが、元海軍大将ウィリアム・マクレイヴンのスピーチを聞くといかに日々の小さな習慣が大切であるか納得できるだろう。
世界を変えたいのなら、まずベッドメイキングから始めましょう。毎朝ベッドを整えることで、一日の最初の仕事を達成したことになります。それは小さな誇りを与え、次の仕事へ、さらに次の仕事へと取り組む意欲を生み出します。そして一日の終わりには、その一つの完了した仕事が多くの完了した仕事へと変わっているでしょう。ベッドメイキングは、人生における小さなことの重要性も再認識させてくれます。小さなことを正しくできないなら、大きなことを正しく行うことは決してできないでしょう。
もし運悪く最悪な一日を過ごしたとしても、あなたが整えたベッドが自宅で待っています。整えられたベッドは、明日はもっと良い日になるという励ましを与えてくれるのです。
家事は禅の修行
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元海軍大将のありがたいスピーチにおいても、ベットメイキングの素晴らしさがわかった。
そしてその勢いのまま伝えたいのは
そもそも我々は家事というものを生きるために発生するノイズではなく「心を磨く」ための修行であると捉えるべき。ということである。
日本人として「禅」の教えからそのヒントを考えてみる。
禅の修行は日常生活との一体化を目指す。
座禅だけでなく、掃除、食事、歩行など、すべての行為が修行の対象とし、
無心と集中、雑念を払い、ただ一つのことに集中することを重視している。
禅の修行の本質は、日常生活のあらゆる瞬間において「今ここ」に存在することなのだ。
家事に対して我々も禅修行のようなスタンスをとらなければならない。生きることに伴う鬱陶しい人生のノイズではなく、人間力を磨く日々のありがたい修行として捉えることができれば、きっと多くの人が日々の暮らしに丁寧さを取り戻しいけるのではないだろうか。
そもそも「家事代行サービス」なんていう事業がある時点でおかしい。それは日本の国力の低下を表してると言っても過言ではないだろう。
これもスマホによって生じる、過剰なドーパミンの結果なのだろうか。
「めんどくさい、だるい、しんどい」と忍耐がなくなり、適当な生活しかできない心が荒れた人間が増えすぎた。
それぞれが禅修行のマインドで、丁寧な暮らしを心がけ、日々の家事に取り組んでいれば「家事代行」なんていうサービスに頼ろうとは思わないはず。
今一度全員、己の雑魚性を見つめ直し、禅修行のマインドで日々の小事に向き合うときである。
俺は働きたくはないが、丁寧な暮らしはしたい。
まとめ
ということで、俺自身、毎日ベットメイキングを無心で行い、午前中は掃除機をかけるようにしている。
不思議なことに、丁寧な生活を午前中にすることができれば、自分自身のエネルギー値が上がり、仕事にも集中して取り組むことができるのを感じる。
また読書をしていても変にスマホが気になったりもせず、本の内容に没頭することができるのである。
それも全て禅修行、いや日々の丁寧な暮らしの恩恵だと感じている。
優秀なビジネスマンより、まずは優秀なライフマンになること。
それこそが"本来的な人間"というものではないだろうか?
日々の生活を丁寧に行うこと。その土台によって生まれるエネルギー、事故規律がブレない自己を形成し、人間力を養成してくれるのだと俺は信じている。
全ては丁寧な暮らしである。
「丁寧」という無心の刃によって、確固たる己を浮き彫りにする。
今年の俺のテーマの1つである。
(働きたくない)
意識の高い、無職として俺は強く生きる。