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【小説】「ことでんの唄」

  ことこと ことでん
  でんでん でんしゃ
  でんでん虫よりのろくなく
  新幹線よりはやくない

  ことこと ことでん
  でんでん でんき
  電気のちからでまいります
  高松港までまいります

  ことこと ことでん
  きょうもゆく
  夕日のまちをかけてゆく

「——この歌、おぼえとる?」
 少し酔っているように見えるリクちゃんに、僕は懐かしい歌を口ずさんで聴かせた。
「ダイちゃん?」
 潤んだ目を嬉しそうに細めて、リクちゃんは言った。
 十年ぶりの同窓会で再会したリクちゃんの婚約者が「ことでん」の車掌ときいて、僕は運命の小さなおかしみを感じていた。

 僕たちの古い友達、ダイちゃんは、この町を通過する「ことでん」の運転士になることを夢見ていた。
 僕はいまでもダイちゃんが教えてくれた、「ことでんのうた」のメロディと歌詞を、そっくりそのまま記憶している。ダイちゃんのおそらくはただ一つの自作曲の、僕は最初の聴き手だったのだ。

「ダイちゃん、教室でもようこの歌うたっとったけど、終わりまでぜんぶ聴かせてもらったんは、きっと俺だけやろう?」

 そう僕が誇ると、今年三十歳になる、あの頃の面影を充分すぎるくらいに残す童顔のリクちゃんは、ほてった顔をこちらに向けて言った。

「その歌、わたしも聴かせてもらったよ?」
「うそ、終わりまで?」
「うん。たぶん」
「いつ?」
「いつやっけなあ……」
 そのときふと僕の回想は、リクちゃんの思う景色とはおそらく別のところへ向かった。

 ……僕は少しずつ鮮明になってゆく夏の思い出のなかで、「ことでん」のたてる大きな走行音を聞いていた。頭の上から強い風が吹きつけた。そこは僕とダイちゃんの、二人だけの秘密の場所だった。

 自分で歌をつくってしまうくらいに「ことでん」に夢中だったダイちゃんが、きっとそれと同じくらいに熱を上げていたのが、当時のクラスのアイドル、リクちゃんだった。
「リクちゃんのこと、電車とおんなじくらい、好きやったもんなあ」
 僕がそう言うと、リクちゃんは笑って、
「うちの旦那さんといっしょ!」
 とおどけてみせた。

 家が近所にあった僕とダイちゃんは、小学校三年と四年のあいだの春休みにダイちゃんが転校してしまうまで、毎日のように日が暮れるまで遊んだ。活発でやんちゃなダイちゃんと、おとなしくて泣き虫だった僕があれほど仲良くできたのは、いま思えば不思議な気もする。

 僕たちのいつもの集合場所は「ことでん」の線路沿いの遊閑地だった。低い塀を隔てたすぐ目の前を「ことでん」の列車が走った。一日に何度も行ったり来たりするファンタゴン・レッドを、ダイちゃんと僕は毎回欠かすことなく両手を大きく振って見送った。

 ファンタゴン・レッド、それは高松から琴平をはじめ県内の東西三つの地域に路線をのばす通称「ことでん」の、当時では統一されていたラインカラーの俗称だ。いまでこそ車両の色の種類は増えたが、古参の鉄道ファンには「ことでんの色」として忘れがたい思い出のカラーリングである。

 三年生の夏休みのことだった。
 ダイちゃんの家の裏の駄菓子屋――いまでは家屋自体が取り壊され、そこは雑草の生い茂る空き地になっている――で二人でお菓子を選んでいると、弟を連れたリクちゃんが店に入ってきた。ダイちゃんと僕はお菓子のことそっちのけでリクちゃんたちに駆け寄った。(僕はそこで交わしたたわいない会話の中身よりも、弟の手を引くリクちゃんがいつもに増して大人びて見えたことを印象的に記憶している。)

 しばらく話をしてリクちゃんと別れた帰り道、ダイちゃんがふと言った。
「リクちゃんの服の色、ええ色だったなあ」
 ダイちゃんはその色を「ことでんの色」とは言わなかった。けれどたしかにそのときリクちゃんが着ていたワンピースの色は、あのファンタゴン・レッドそのものだったのだ。
「あんなおしゃれな服、いつも着とんかなあ」
 ダイちゃんは僕の顔を見ずに言った。

 ダイちゃんが生みだした最もスリリングな遊びのひとつに、「橋の下会議」がある。
 僕たちの遊び場所である遊閑地と隣の民家とのあいだには、ちょうど土地の角で「ことでん」の線路と交わる、幅二メートルくらいの小川が流れていた。川と線路が通る橋との高低差は子供の背丈くらいあり、そこには背の高い水草が繁茂していた。
 その水草が年に二度ほど、すっかり刈り取られることがあった。橋の下にはそのとき、両岸に沿ってまっさらな砂地があらわれ、ダイちゃんはそこに子供が忍び込むことができるスペースを発見したのだ。

 僕はその秘密の空間で、ダイちゃんに「ことでんのうた」を教わった。僕たちだけの秘密の話を分かち合ったりもした。一定間隔を空けて頭上を駆け抜ける「ことでん」の轟音が、僕たちの秘密をおびやかす急襲の音のごとく感じられ、僕たちの絆をかえって強くしていたように思う。大人に見つかったら間違いなく叱られる、そんな危険な遊びに、ダイちゃんとダイちゃんの影響下で気を大きくしていた僕は夢中だった。

 リクちゃんと駄菓子屋で会った日の夕方、僕たちはいつものように「橋の下」へと駆け込んだ。およそ十分に一度やってくる車両の音を、僕たちはどきどきしながら待っていた。
 けれどそのときの僕の「どきどき」には、どこかいつもと違う種類の胸騒ぎが含まれていた。目の前で笑いをこらえるようにして下を向き、僕にきれいな坊主頭を見せるダイちゃんの様子が、そのときはどこかよそよそしく感じられた。ダイちゃんはいつもの「ことでんのうた」も口ずさまなかった。

 草いきれが体をつつんだ。踏切の音が遠くに聞こえ、狭い桁下に低く轟くような音が忍び寄ってきた。

「おれな、リクちゃんのことが好きや」

 ダイちゃんの言葉を、走る車両の凄まじい音が掻き消した。僕は聞こえなかったふりをして、「え、なんて言うた?」
 と聞き返した。
「なんでもないわ」
 とダイちゃんは言った。

 ……僕もリクちゃんのことが好きだったのだ。
 ずっと前から気がついていた、ダイちゃんの気持ちを、ダイちゃんがまっすぐな言葉にしてしまうことを、僕は怖がっていた。
「きょう、ダイちゃん、なんか変やわ!」
 と僕は怒ったように言ってしまった。
 それから僕たちの足は「橋の下」へ、少しずつ向かなくなっていった。

 ――ダイちゃんの気持ちも、僕の気持ちも、肝心のリクちゃんには伝えられないまま、その年の春、ダイちゃんは父親の転勤のために東京の学校に転校してしまった。

 突然のことだった。転校することを「橋の下」で本人から知らされてから、ダイちゃんがいなくなるまで、さみしさを噛みしめている暇もないくらい、あっという間だった。

 大人になったいま振り返れば、なにもかもがあっという間だったという気がする。ダイちゃんのことや「ことでんのうた」は忘れないけれど、色褪せてしまった遠い思い出は数知れない。町の姿も、人の暮らしも、あの頃とは変わってしまった。

「まだ連絡、とってるん?」
 リクちゃんが訊ねた。
「ダイちゃんと?」
「うん」
 僕はしずかに首を横に振った。「まさか」
 あれからダイちゃんとは年賀状のやりとりを一度しただけで、音信は途絶えてしまった。
「また会って、謝りたいなあ」
 僕がそう言うと、リクちゃんはけろりとして、「なにを? ……大丈夫、すぐに会えるよ」と言った。

「だってわたしたちは、いまでも『ことでん』の通る町で暮らしてるんやから。ダイちゃん、きっと会いに来てくれるやろ。わたしたちに、じゃなくて、『ことでん』に」

 リクちゃんはにこっと笑って、僕の空になったグラスにビールを注いだ。

   *

 あの遊閑地にはその後、アパートが建てられたが、裏手の「橋の下」にはいまでも水草が青々と茂っている。もしかしたら年に二度ほど、そこはわんぱくな子供たちのための「秘密の場所」になるのかもしれない。耳をすませば、元気な歌声や内緒話が聞こえてきそうだ。

  ことこと ことでん
  きょうもゆく
  夕日のまちをかけてゆく

(『四国新聞』2021年2月22日 朝刊)

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