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「るみきの雪」【短編小説】

 東京の街にはめったに雪が降らない。

 それでも年に一度か二度、まるで神様からのプレゼントみたいに真っ白な雪がわたしのうちの庭にも降り積もる日がある。そのたびにわたしは、るみきという、不思議な名前の少女のことを思いだす。

 るみき。なんて素敵な名前だろう。

「瑠美希」と書いて、るみき。

 わたしはそんな名前の子を彼女以外に知らない。日本人の女の子の名前で三番目くらいによくある名前をしているわたしは、瑠美希みたいな一風変わった名前をとてもうらやましく思う。

 わたしはるみきと友達だった。――友達だった、と過去形でいうのは、彼女との手紙のやりとりはもうずいぶんむかしに終わってしまったからだ。

 それでも瑠美希はわたしにとって、いまでもかけがえのない大切な存在だ。そして瑠美希も世界のどこかで、たとえば雪の降る日なんかに、わたしのことを思いだして、なつかしくてあたたかい気持ちになってくれたりもするのかもしれない。

 わたしは生涯、瑠美希のことを忘れないだろう。


 わたしは小学五年生のとき、瑠美希と短い冬を過ごした。

 同じ学校の同級生だった瑠美希とはじめて言葉を交わしたのは、長野県のスキー場に隣接するホテルの休憩所だった。わたしたちが麓から眺めたゲレンデは、うそみたいに広大で、そこには透明な風が一日中吹いていた。

 わたしたちの通っていた東京の小学校は、冬にスキー合宿を開催していた。スキー合宿は、希望者だけが参加する、毎年の恒例イベントだった。

 わたしはその年も意気揚々と合宿に参加した。というのも、わたしはスキーが大好きだったし、大の得意だったからだ。

 わたしの家族は毎冬かかさず軽井沢のゲレンデに遊びに出かけていた。そこでわたしはスポーツマンの父から、手取り足取りスキーを教わった。
だからわたしは大きなゲレンデにも、そこに積もるパウダースノーにも慣れっこだったし、スキーを滑るのはクラスの誰よりも上手だった。運動が得意な男の子たちのなかにも、わたしほどスキー板を履きなれている子はいなかった。

 だから、いつもはクラスで大人しいタイプのわたしが、ゲレンデではまるで水を得た魚のようだった。雪山のコースをいきいきと滑走するわたしは、みんなの注目を浴びた。わたしは気分がよかった。


 スキー合宿に瑠美希が参加していたのは、とても意外だった。

 瑠美希とは同じクラスだったけれど、わたしは彼女のことをほとんど何も知らなかった。言葉を交わしたことさえなかった。

 瑠美希もわたしも、四十人近くいるクラスのうちの二、三人の、話の合う限られた人たちのグループのなかにいることがほとんどだったし、お互いに積極的に新しい友達をつくろうとするタイプではなかったらしい。

 けれど、瑠美希はわたしにとって、印象深い女の子の一人だった。彼女はいつも松葉杖をついて、右足を引きずって歩いていた。だからというわけではないけれど、わたしは彼女のことが、以前からなんとなく気になっていた。

 瑠美希がわたしたちの学校に転校してきたのは、前年の冬のことだった。そのときはわたしと瑠美希はクラスが別々だった。その直後に行われたスキー合宿に、瑠美希は不参加だった。

 五年生に進級し、わたしたちは同じクラスになった。

 瑠美希は体育の授業を休んだり、見学したりすることがほとんどだったから、スキーのような激しい運動は彼女にはできないはずだとわたしは思っていた。

 だから、瑠美希の名前を今年の合宿の参加者名簿のなかに見つけたとき、わたしは何かの間違いだと思った。けれど瑠美希なんて変わった名前を、間違えて書いてしまうようなおっちょこちょいさんがいるものだろうか。

 わたしはゲレンデで瑠美希と会うことが、楽しみなような、なぜだかどきどきするような、不思議な気持ちをいだいて合宿の初日を迎えた。


 ところが、一日目のスキーがはじまる直前になっても、瑠美希はゲレンデに姿を見せなかった。

 スキー板を誰よりも素早く装着したわたしは、はやく雪の上に駆けだしたくてうずうずしていた。

 板の留め具とシューズがうまく噛み合わずにぐずぐずしている男の子を尻目に、わたしはこれからわたしの体が誰よりも深く受けとめる爽やかな風の匂いを想像して、すでに気持ちがよかった。
目の前の雪景色に夢中だったわたしの頭のなかに、瑠美希のことはよぎらなかった。

 そのときだった。隣でシューズを履いていた男の子が板の上で転んで、わたしの側に倒れかかった。わたしはとっさにバランスをとろうとして右足を外側に滑らせたが、スキー板の先端が硬い雪にひっかかって、自分の体を支えきれなかった。鈍い痛みが体の芯まで冷たく走った。わたしは右足をくじいた。

 病院から帰ったわたしが通されたのは、スキー場の隣にある、わたしたちの宿泊するビジネスホテルの休憩所だった。

 わたしは、これしきの痛みなんともない、と先生たちに対してめずらしく意地を張ったが、ずきずきとうずく右足の痛みには勝てなかった。わたしは右足と悔しい思いを引きずりながら、暖房のよく効いた広い部屋に入っていった。

 そこに瑠美希がいた。瑠美希は休憩所のいちばん奥のソファに腰かけ、わたしに背中を向けたまま、じっと窓外の白い景色に見入っていた。

 わたしは勇気を出して、瑠美希の隣に歩み寄った。

「ここ、いい?」

 そう声をかけると、瑠美希はおもむろにわたしの方を振り返り、包帯の厚みでずいぶんと太ったわたしの右足をまじまじと見て言った。

「転んじゃったの?」

 わたしはいくらかむすっとして答えた。

「男の子とぶつかっちゃったの」

「痛かった?」

「痛くはなかったけど」

それはわたしの強がりだった。

「もう滑れなくなっちゃった」

「残念だったね」

 わたしは瑠美希がわたしに対して積極的に話しかけてくることに驚いていた。

 瑠美希の小さな体の右側には一組の松葉杖が立てかけられてあった。

「るみきちゃん、ずっとここにいたの?」

「ずっといたよ」

「あとで、雪だるまつくろうね」

「いいよ」

 わたしは瑠美希とどんな話をすればいいか、わからなかった。

「……この部屋、あったかいね」

 わたしがそう言い終わらないうちに、瑠美希が座ったまま背筋を伸ばして言った。

「あ、伊藤先生だ!」

 瑠美希は指で示した先とわたしの顔とを交互に見た。

「ほら、ここから、みんなが見えるよ!」

 わたしはカラマツにふちどられた青空にかかえられた、真綿のように白く、バニラアイスのように美味しそうな雪の原の一角で、水色と白のスキーウェアを着た同級生たちが、次々と雪の上を駆けて行くのを見た。

「ほら、あの赤い服の!」

 そう言うと、瑠美希は興奮したように、ソファから身を乗りだした。

「ほんとだ!」

 わたしもうれしくなって叫んだ。

 わたしたちは、小柄な女性である担任の伊藤先生の見事なスキーの滑走をうきうきして見届けた。

 そのあとには同級生たちが、恐る恐るという感じで短い距離を滑って行った。ときどき誰かが転んだり、おかしな方向へ滑って行ったりするのを、わたしたちは声をあげて笑いながら見物した。


 次の日も、わたしは瑠美希といっしょに、スキー場の様子を一日中眺めていた。

 ゲレンデは昨日よりも多くの人でにぎわっていた。空は、昨日の青空とは打って変わって厚い雲に閉ざされていた。いまにも雪が降りそうだった。

 目の前の大きな縦長の窓に寄りかかって植わるカラマツから、雪のかたまりが硝子を滑って崩れ落ちた。下からどさっという鈍い音が聞こえてくるようだった。

「るみきちゃんは、スキーをやりたいって思ったことないの?」

 わたしは何気なくそう言ったあとで、どきりとした。決して口にしてはいけないことを、言ってしまったと思った。

 すると瑠美希は、まっすぐにわたしの方を見て言った。

「やれるものなら、やりたいよ。でもね、できないの」

 瑠美希の目は笑っていた。

「だってるみきは、白雪姫だから」

「白雪姫?」

 わたしはぽかんとした。

「そう。わたしの名前は、白雪姫なの」

「るみきの名前が?」

「うん。フィンランドの言葉でね、ルミッキは、白雪姫っていう意味なの」

 そのとき、外にはきれいなぼたん雪が舞いはじめていた。雪の一粒ひとつぶが、まるで地上に降り立つ天使のように、すでに降り積もった雪の上にゆるやかに重なっていった。

「お姫さまがスキーなんかして、転んじゃったら、大変でしょ?」

 瑠美希はわたしの負傷した右足を見ながら、いたずらっぽく笑って言った。

 わたしはなぜだかほっとして、心から笑った。

「そうだね、大変!」

 すると瑠美希はきらきらした目の中に雪の影を宿しながら言った。

「……ほんとうはね、わたし、ルミっていう名前になる予定だったんだ。だけど、わたしが生まれる日の朝にね、雪が降ったの。わたしのお母さんは、フィンランドに長いあいだ暮らしていた人だったから、それでピンときて……。自分の名前から一文字とって、希望の希の字をルミにくっつけてくれたの。この子は雪のお姫様だよって。だからわたし、ほんものの雪を見たくて、ここに来たんだ」

 それから瑠美希は、きのう生まれてはじめて雪を見たこと、そのとき、あまりにうれしくて涙がこぼれそうになったことを、にこにこしながら話してくれた。


 帰りのバスの出発の時刻は、あっという間にやってきた。

 雪は降りやみ、空には晴れ間がのぞいていた。

 やさしい日差しが雪をかぶった針葉樹林に降りそそぎ、いくつもの人の足あとで汚れた雪の道の上にも、瑞々しい光があふれていた。

 遠くの山々は輝いていた。

 わたしたちは二人で並んでバスに乗りこみ、隣同士の席に座った。

 スキーができずに悔しがっていたわたしの元気な姿を見たクラスメイトは、ちょっと怪訝な顔をしていたが、わたしは気にならなかった。

 授業のあるいつもの学校生活にもどっても、わたしは瑠美希と仲良しだった。わたしの足の怪我はすぐに完治したけれど、瑠美希と歩くときにはわたしは彼女のペースに合わせて、ゆっくりと歩いた。

 二人でたった一度の冬が過ぎていくを、いろいろな場所から、いろいろな心で眺めた。そしていろいろな話をした。

 その冬、わたしたちの街にはたった一度だけ、やさしい粉雪が舞った。

 次の春に、瑠美希は転校してしまった。


 それからというもの、わたしたちは何度か手紙や年賀状のやりとりを繰り返したが、その後、どちらからともなく二人の音信は途絶えてしまった。

 それでもあの日、瑠美希と二人でホテルの休憩所を抜けだして、先生たちに内緒でつくった小さな雪だるまは、カラマツの木の下に、いまでも残っているような気がする。

(終)

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