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重い十字架を背負ってるあなたの話を聴いてみて。

最近、人のお話を聞いているとき、
シンプルに「なんでそんなに重い十字架を背負っていらっしゃるのですか?」と聞きたくなるときがあったので、その備忘録。

「ヴェロニカ」のこと

中学生のときに、狐狸庵先生(遠藤周作さん)の、「ヴェロニカ」という作品を読んだのをずーっと覚えていて…。
あらすじはこんな感じ。↓

イエス・キリストは処刑されることとなり、ゴルゴタの坂道を70キロもの十字架を背負いながら登っていく。
長きにわたる、拷問で体力は奪われ、進んでは倒れを繰り返す。
しかし、そんな彼に群衆は容赦なく罵声も石もあびせる。
そんなとき、一人の女性が彼に駆け寄り、血と汗に汚れた彼の顔をぬぐった。
彼を助けたことによって彼女自身が危うくなるかもしれないのに、彼女はそうした。
いや、せざるを得なかったのだ。その女性がヴェロニカである。

こちらのブログが参考になる。

あと、本はこちら

十字架とあまり関係ないかもしれないけれど、人のお話を聴くとき、なぜかこのお話を思い出す。
ヴェロニカは、しなくてもいいことをしたと言われればそこまで。でも、彼女はそれをした。それは自己満足かもしれないし、リスクも大きい。でもそれをすることによって、彼女は救われたし、きっとキリストも救われた。そう、彼女は、「影響」を作り出した。

「重い十字架」のこと

一方ひるがえって、私が話を聴いた方々。
真っ先に思うことは、「そんなこと、気にしなくて大丈夫だよ!前にすすめるよ!」ってことなんだけど。
それを口にするのは、あまりに無責任だし、なんか上辺な気がする。

そう、ここでいう十字架というのは、相手の口から出た「ことば」ではなく、「その背景」なのだ。そして、その背景、つまりは十字架を生み出した「体験」がそこにはあるはずなのだ。

だから、私は、注意深くそこを探る。でも、やっぱり十字架を隠しちゃう人もいる。(で、「見えとるで」って言いたくなる)
もしかすると「見えとるで」って言って「あげた」ほうが、お互い楽になるかもしれない。その選択肢は、聞き手としていつももっていたい。
でも、それは一方で「勝手なこと」になるリスクもあるよなーと思っている。肝を突いてしまうのではないのか?と全神経を使う。目元、口元、手振りなどからすんごい探すけど、9割9分、聞かずに終わる。

きっといつか、「じゃじゃーん!十字架でーす!」って言える日が来るんだと思うから。そのときには、ちゃんと「わーい!でかっ!!おもっ!!」って一緒に言ってあげたい。

「答えをいつ出すか?」という権利は、相手が握っているものだ。聞き手ができるのは、「いつでもどうぞ」とミットを構えることだけ。(まあ、ただ、その構え方が大事なんだろうけど…。)
あと、背負うのを手伝う覚悟をもつことだけ。

ただ、十字架を背負ってる人には、なんらかの方法で

  • おつかれさまでございます。

  • その十字架重そうですね

  • それをそのままお持ちになってもいいですし、

  • 等分して、こちらへ渡していただいてもよろしいですし、

  • 別の方にプレゼントするのもよいかもしれません。

  • 全部渡す?それもいいですね。

  • ここに埋めていく?スコップもってきましょう。

  • まあ、この、ベルトをつければ軽く持てるかもしれませんが、

  • どうぞ、自分で選んでください。

  • 最後まで、お付き合いいたします。

ってことは伝えてあげたい所存でございます。

やっぱり聴くことはおもしろい。

と書いて「おもしろい」は語弊があるかなと思うわたし。

「あなたへの社会構成主義」を読んだ時に、
「出てくる言葉の裏には、そのときに選ばれなかった幾千の言葉があることをゆめゆめ忘れることなかれ」みたいな文章があって、それはいまだに自分のエンジンになっていると思う。

選ばれた言葉たちを聴かせてもらえることに感謝して、それを同じように大事にしているってことを態度で出せればいいなぁと思う今日このごろ…。
今週もがんばります。


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