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成人式おめでとう!〜と関係ないところで「うむー」と思った話し。

昨日は教え子さんたちの成人式にお呼ばれでした。
うれしいような、どっかむず痒いような複雑な気持ちで参加しました。
(恩師とか呼ばないで恥ずかしい(*´艸`*)…と思ってしまう)
(この場合の「恥ずかしい」は「照れる」と「そこまで恩をかけた覚えはないよーという思い」の和です。

式自体はとても落ち着いた雰囲気だったし、みんなおとなになっているなと、おっきくなっているなーと、ただただ感動(もはや親気分…)しました。そうね、感慨深い時間だったというか。

仕組みで、ちょっと気になったところがあって、「実行委員」って子たち(方々か)が仕切りをするのだけれど、どこか、市から独立していなくて、「主催!→『市』」みたいになっているのがどこか居心地悪くて、個人的には、「これだけ自分たちでできるんだから、もう、過保護にしなくていいんじゃないの?このコたちにまかせていいんじゃないの?」という思いもあった。
もちろん、来賓や挨拶への心配りなんかはあるのだろうけど、そこはせっかく実行委員会あるのだから、そのときに、こことここは、って伝えればいいのかな?と。

とはいえ、彼ら・彼女らもふだんはお仕事だったり学業に励んだりしているのだから、そこに力をかけすぎるのもなぁ…って思いもある。難しいよね。市の方が来賓の接待していたけれど(教育委員会のみなさま、おつかれさまでした)、一瞬、控室に入るの戸惑ったものね。「わ!スーツの集団だ!!」って。

そうだね、あいさつの文面(冒頭)とかが、明らかにつくられたものだったのが、そう思わせたのかもな。

一番胸を打たれたのが、成人の誓い?だったかな、挨拶する場面があるのだけれど、その言葉がさー、ほんとに自分のことばだとわかるような文面だったんだよね。いまこういうあり方でいて、これからこうなりたいって。こういう若い言葉で生き返るなぁと思う。すてきだった。

その中で、「教職につきたい」というお話があって、この時代でもこういう方がいてくれるのが救いだなぁ、そのために自分が何をできるか考えないとなぁと感心させられた。その方々が教職についたときに、「この仕事でよかった」と安心できるような環境を作っていくことが、遠くにはいるけれども自分に課せられた仕事だなぁと思った。

「教職につくため、大学では知識やスキルを学び」って言葉があって、そこだけは、ちょっと「ん?」と思った笑
たしかに、大事なことではあるのだけれど、大学生時代ってそれだけなのかな?って。もちろん話した人はそういうつもりで言ったわけじゃないというのはわかっているけれど、ひっかかったんだよね…。
学生の時代って、興味が広がる時期だからさ。なんか、自分の興味をスキルと知識に全振りするようなことはないように…と祈る。

でもさー、思うんだけれど、「成人式」って場だから、そういう言葉になったのかなって。
さすがに成人の誓いで「教職につくため、大学時代にはいっぱい遊んで興味の幅を広げたいと思います!」って言われたら、「おい、ちょっとまて」ってなる気もする…。

そんなこんなで、興味深い45分だった。
記念撮影に入ってと言われたのも恥ずかしかったけれども…。(入るとわかっていたら、もう少しかっこうには気をつけたのに…)

最後になるけれど、「成人式に呼ばれる後ろめたさ」ってなんだろう?って考えるときに、当時の自分への後悔ってのが、どうしてもあるんだろうなと思った。
今だったら、もっとこんなことができたのに、とか、自分のスキルがたりなくて、困らせてしまったなとか(そう考えるとスキルも大事か笑)、楽しかった思い出という白いキャンバスのうえに、ぽたりぽたりと墨をおとしたようにちょっとした後悔があるんだよね・・・。

とはいえ、それはわたしの思いだから。
「ありがとう」と思って呼んでくれた彼ら彼女らの思いではないから。
こちらも「ありがとう」と言って、彼ら彼女らの思いを受け取ろう。
それがきっと彼ら彼女らの担任だった私が、担任としてできる最後のお仕事だと思うから。

最後に改めて、新成人のみなさんおめでとう!
これからのみちみちに幸多からんことを!

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