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武蔵国府は京王線に乗って。義家ゆかりの大国魂神社へ   吾妻鏡の今風景39

 治承四年十月、頼朝軍は王子の滝野川から武蔵国府(府中)へ。滝野川から府中。平安時代には、その途中に乗瀦(アマヌマ、もしくはノリヌマ)という駅があったようであるが、それがどこなのかはよくわからない。瀦(ちょ)とは水たまりを意味する文字。となれば、水の溜まっているところ。
地図を見る限りでは、王子と府中の中間ぐらいにあるのは石神井の池。滝野川を遡れば石神井の池へと至るので、これは石神井の池のことではないのだろうか。(杉並区天沼である、という説もある。)


 さて、現代の府中へ行くにはどうすればいいのか。王子から京浜東北線で神田、神田から中央線・・・。いやそれでは府中へは行けないということを、愚かにも私は、王子駅のJR路線図を眺めていて気付いた。なんということだ。中央線が府中を通っていないとは。
 昔、雑誌の仕事で終電を逃した友人編集者を、しょうがないね~、と車に乗せて渋谷から府中まで送ったことがある。深夜の20号線は空いていて快適で、つまり20号線を走っていけばいつか府中に辿り着くということを実体験した。
 しかし府中には車で行ったことしかなく、電車で行こうとして路線図を見たら判明、府中に行くのは京王線。20号線の近くを走っている電車は京王線ではないか!

 (東京都下)府中市は、奈良時代から平安時代まで武蔵国府があった場所。武蔵国府とは東京都庁のような役所で、国家公務員である役人がいる場所。そして国府のあった場所が大国魂神社である。武蔵国府に行くなら、京王線に乗らなくてはならない。




こちらが八幡太郎義家さまである。



 
 康平五年(1062年)、八幡太郎義家が奥州からの帰りに大国魂神社に立ち寄り、のちにケヤキの苗千本を奉植。しかしその千本の苗、どこでどうやって調達したのか。部下たちに山からひっこ抜かせたのか、それとも近隣の農民たちに挿し木を作らせたのか。そのあたりはよくわからない。

 現在の府中のケヤキ並木は約100本ほど、そして大国魂神社で最も古いケヤキの推定樹齢は900年ぐらいではないかということであり、八幡太郎義家は紀元1000年頃の人。長暦三年(1039年)ー嘉承元年(1106年)、神社の入り口付近の巨木は、八幡太郎義家ゆかりのケヤキということになるのかも。
 
 頼朝は 1147年生まれ、義家とは108歳差。頼朝が大国魂神社に立ち寄った時には、すでにケヤキは樹齢100年ほどの堂々とした並木になっていたに違いない。

 頼朝にとって義家は曾々祖父(高祖父)、great-great-grandfather! おじいちゃん(為義)のさらにおじいちゃんが曾々祖父(高祖父)。曾々爺(ひひじじい)ではない、曾々祖父(ひいひいじいさん)である。
 義家にとって頼朝は曾々孫(玄孫)、great-great-grandson! 孫(為義)の、さらに孫にあたる曾々孫(玄孫)。
 なお、義仲と義家の関係性も同様で、義仲も頼朝も、いずれも義家の玄孫。だから、義仲は「やあやあ我こそは、八幡太郎義家の玄孫、源次郎義仲である!」という名乗りになるのか。
 
 義家の孫の為義は永長元年(1096年)生まれなので、義家57歳ぐらいの時の孫となり、その息子の義朝は保安4年(1123年)生まれ、義家の曾孫になり、義家が亡くなったのち17年後に生まれている。義朝が27歳(数え28歳)の時に義家の曾々孫にあたる頼朝が生まれ、これは義家が亡くなったのち44年後。
 
 府中の大国魂神社入りした時の頼朝、満年齢で33歳ぐらい、1990年(平成二年)生まれが2024年に33歳でアラサー男子、そのおじいちゃんのおじいちゃんが1880年(明治十三年)ぐらいの人だった、というような関係性を想定してみてほしい。曾々爺さんは京都の人で、部下を引き連れて馬で東北まで行って一仕事して帰ってきた時、大国魂神社に立ち寄って無事に戻れましたのご報告、ケヤキの苗木を奉納、そのケヤキが根付いて立派になり、曾々爺さんが70歳ぐらいで亡くなったその44年後に生まれた曾々孫が、33歳で曾々祖父ゆかりの地を訪れた、というようなストーリーとなる。

 関八州の武士団の多くは、義家の奥州行き(前九年、後三年)につき従っていた。ご先祖が、頼朝の曾々祖父である義家のもとに集って戦っていたという歴史がある。頼朝が大国魂神社に立ち寄ったのは、そのあたり計算の上であったに違いない。





 鎌倉街道の名残を辿ってみようと思いたち、藤沢からR467、16号を経て町田、というルートを選んだ。16号あたりはさすがに混む。目的は府中に向かう鎌倉街道に入ること。
 県道52号線。しばらく行くと県道18号線となり、「鎌倉街道」という看板がある。薬師台、鶴見川を渡って聖蹟桜ヶ丘の小野神社に立ち寄り、関戸橋で多摩川を渡って、大国魂神社をめざす。
 
 武蔵国は、都と奥州を結ぶ東山道の枝道として、高崎(上野)から府中に至る東山道武蔵路が設けられており、これは東山道から武蔵国分寺(武蔵国府)への重要なルートであった。武蔵国分寺(国分寺)周辺には、鎌倉道の遺構が残っている。大国魂神社から多摩川を渡り、町田、そして鎌倉へ。府中からは国分寺、所沢、嵐山、そして新田庄、足利へ。

 平安時代末期、鎌倉へと向かう主要な道は3つ。上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)。府中から南下して鎌倉をめざす道は、その3つのルートのうちの上道(かみつみち)にあたる。

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