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平安時代の伊豆国はリゾート地…ではなく、流刑の地 吾妻鏡の今風景03
現在の伊豆は、流刑の地…ではなく、リゾート地。ダイヤランド、エメラルドタウン、イトーピア、伊豆急別荘地、東急天城高原、伊豆にはいい別荘地がたくさんあるよ~。
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平安朝、嵯峨天皇の時代に身分の高い人に対しての死刑が停止され、流罪が最高刑となる。保元元年(1156年)で源為義が漸首されるまでの約346年間、朝廷において死刑は宣告されなかった。(注・朝廷において。実際に巷で死刑が行われなかったわけではないようですが。)
しかし保元の乱で死刑が復活、頼朝も危うかったところではあるが、殺生はならぬという清盛の継母の願いで、流刑に。身分を剝奪し、都から離れた遠い地に流すのが流刑。
流刑には遠流 (おんる)、中流 (ちゅうる)、近流 (こんる)という3種があり、これは猫のスィーツの種類ではなく、距離の区別。
近流(こんる)なら京からあまり離れていない場所、吉野、淡路島、越前あたり。100km~200kmぐらい、でも、日帰りは無理というような場所。光源氏が明石の須磨に行ったのは、恋愛トラブルの発覚を恐れたためで、自主的な流刑という隠遁。
中流(ちゅうる)は、京をもっと離れた場所。たとえば信濃、上田のあたり。京都から300kmほど離れ、行くまでに1週間以上はかかる。もしくは四国、伊予(愛媛)、讃岐(香川)で、船がないと行けない場所。
崇徳院の場合、心を病んでいたので怨霊になってしまったが、都からの仕送りがあるなら、暮らしていけない場所というわけではない(と思うけど。)
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そして遠流(えんる)は、さらに遠い場所。伊豆とか太宰府とか、大島とか。
といっても、伊豆は京から400kmぐらい、平安時代でも3週間もあれば辿り着ける場所だったというので、遠流の中では軽い。これが大宰府なら、京から600kmなので、いきなり遠い。
さらには佐渡島、隠岐島、伊豆大島への島流し。伊豆国と伊豆大島とではまったく違うのだが、都からしてみたら、どっちもたいして変わらなかったのか。とにかく伊豆国は、遠流というわりには気候温暖で、過酷ではない流刑地であったと思われる。
鬼界ヶ島(きかいがしま)への遠流は、(平安時代においては)特別待遇の例外で、当時の都人にとっては、さすがに辛いことであったと思われる。釣りが趣味の人ならやっていけるのかもしれないけれど、都の僧侶に漁は無理ですもんね。
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伊豆大島への流人として有名なのは7世紀後半の山岳修行者、役小角(えんのおづぬ)。伊豆大島から毎晩、伊豆山や富士山へと登って修行していたという伝説があり、つまり空を飛べたとか、海の上を歩くことができたとか、役小角にとっては、まさしくリゾート気分での大島滞在、ぜんぜん刑罰にはなっていなかったようなんですが。
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同じく伊豆大島に流罪になった人物として、八郎為朝(ためとも)。源為義(ためよし)の八男。為義(ためよし)は頼朝(よりとも)の祖父なので、頼朝にとっての叔父。身長2mを超える巨体で剛弓の使い手、保元の乱(1156年)で敗北、捕らえられて伊豆大島へ流罪になるが、伊豆大島を乗っ取ってしまう。
さすがに放置してはおけないということで、嘉応2年(1170年)に、伊東氏、北条氏、宇佐美氏らの連合軍が伊豆大島に攻め寄せ、為朝は船を射抜いて沈没させるなどして抵抗するも、多勢に無勢で、自害。これは頼朝が伊豆に流されてから10年後の出来事であった。当時、頼朝は23歳ぐらい。
ところで、伊豆大島から鎌倉まで60㎞。2011年に茅ヶ崎市の会社員2人が伊豆大島から江の島まで60kmを1昼夜かけて泳ぐというニュースがあった。伊豆大島から東伊豆町までなら30kmなので、超人為朝だったら、泳いで島抜けも可能だったかもしれないけど。
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伊豆国に流罪になった平安の有名人としては、伴善男(とものよしお)。応天門の放火罪(応天門の変)で伊豆国に配流、当地でその生涯を終えたとされる。大納言の地位までなった人物で、大納言とは大臣に次ぐ位だから、今でいったら副大臣、政務官クラスの人物。
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そして文覚上人。もと北面武士の遠藤盛遠(えんどうもりとお)、神護寺復興のための寄付を後白河法皇に強要して、伊豆国に追いやられる。
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頼朝が伊豆に流されたのと同時期に文覚上人も伊豆に滞在し、2人は流人友達となり、文覚上人が修行していた不動滝の毘沙門堂で語らっていたそうな。毘沙門堂は、原木駅から伊豆エメラルドタウンという別荘地へと向かって登っていく狭い山道の途中にある。 (秋月さやか)