伊東荘の祐親と、娘の八重姫 吾妻鏡の今風景16
(話はちょっと戻るが)、富士川(浮島ヶ原)の戦い直前。治承四年旧九月十八日。伊東祐親は息子の祐清を伴い、平氏軍に合流するために、伊豆の鯉名湊(南伊豆町湊)から船を出すが、源氏の軍勢に捕えられる。
伊東祐親は伊豆における頼朝の見張り役で、その娘の八重姫は頼朝の最初の妻。2人は祐親が都へ行って留守だった間に親密な関係となり、男子、千鶴丸を授かる。頼朝が住んでいた蛭ヶ小島は、伊豆の尾根の西側、伊東は尾根の東側。しかし、祐親が不在であった間、頼朝は伊東荘に長期滞在していたらしい。すでに子までいるなら、と祐親に2人の仲を認めさせようとしたのかもしれないが、都から戻った祐親は、千鶴丸を松川の上流に沈め、八重姫と頼朝との仲を裂く。孫を川に沈めて命を奪う、むごい話ではあるが、平家に睨まれたら、孫どころか一族滅亡も覚悟せねばならず、それよりは・・・という苦渋の決断であったのではないか、と思える。長老祐親の立場としては、伊東荘の一族郎党の生活に責任を持たなくてはならないわけで。
八重姫との仲が発覚した頼朝の命も危うかったが、八重姫の兄の祐清が、頼朝を逃がしたとされる。頼朝は伊東から船で赤根崎まで逃げ(R135の赤根崎トンネルの海側)、そこから山を登って伊豆山権現へと逃れたとされる。
アカオローズスクエアというハーブガーデンがある斜面の上の道が、頼朝ラインという道路になっていて、その道の途中に「頼朝の一杯水」という湧き水がある。逃亡中の頼朝が喉を潤したという言い伝えの場所。
というわけで、頼朝は、かつて自分の命を救ってくれた祐清には恩賞を与えて配下に加えようとするが、祐清は拒絶する。「父はすでに怨敵として囚人となり、その子がどうして賞を受けられましょうか、今は、平家軍に加わるために上洛いたしたく」と告げて頼朝のもとを去る。のちの祐清については、北陸道の合戦で討ち死にしたとされる。
伊東祐親はというと、娘の一人が三浦義澄の妻であったことから(三浦義澄にとって祐親は舅)、義澄が祐親の命乞いをし、その身柄をいったん預かったとされる。
また、土肥実平(どいさねひら)の息子の遠平(とおひら)の妻は伊東祐親の娘(つまり八重姫の姉妹)、従って土肥実平と伊東祐親は姻戚であり、土肥実平もまた、祐親の命乞いをした。
『吾妻鏡』では、祐親は自刃したとされる。『曽我物語』では、神奈川県葉山町の鐙摺山(旗立山)頂上で首を刎ねられたとある。鐙摺山は葉山マリーナ近くにある小高い丘のような場所で、日陰茶屋の駐車場脇。登山口の入り口には階段があるが、階段は途中まで(ただし、私は頂上まで行ったことはなく)、頂上には「伊東祐親入道供養塚」と呼ばれる石積みの小さな塚があるという。
かつて伊東祐親の屋敷があった場所は、伊東市物見塚と呼ばれる小高い丘で、今は伊東市役所が建っている。この伊東市役所がなかなかすごい建築物なので、伊東に行ったらぜひ訪れることをおすすめします。市役所の最上階の食堂は、間違いなく伊東でいちばん眺めの良い場所。海一望の食堂には一般客も入ることができる。駐車場もあり、市役所の受付で「食堂に行きます」というと、無料券が出ますので~。
なお、伊東温泉の歴史は古く、平安時代にはすでに温泉があったらしい。
頼朝と別れたのちの八重姫の行方には、諸説ある。
『吾妻鏡』では、伊東祐親は八重姫を江間次郎に嫁がせた、とある。江間次郎は、江間に住んでいた身分の低い郎党であるとする。『曾我物語』では、江馬次郎(江間次郎)は、伊東祐清とともに加賀国にて討死とある。江間次郎は伊東祐親の配下であったので、祐清について北陸道の合戦へと赴いたのだろう。
『豆州志稿』によれば、「源頼朝は、八重姫が嫁いだ江間次郎を殺害し、その子を北条義時に育てさせ、元服したのちには北条義時を烏帽子親として江間小次郎と名乗らせた」とある。となると、八重姫は義時に嫁いだということなのか。
歴史学者の坂井孝一氏は、八重姫が夫の江間次郎の戦死後に「阿波局」として頼朝の御所で働くようになり、江間氏の所領を受け継いだ北条義時と再婚したのではないか、という仮説を唱えている。
紛らわしいのだが、義時は江間小四郎と名乗った。江間に住む小四郎。はて、義時の兄は宗時で、義時は次男だと思っていたら、宗時は三郎宗時、義時は四郎義時。どうやら2人の上には兄が2人いたらしい。なおかつ、父の時政も四男で北条四郎であった。そこで息子を小四郎として区別し、さらには江間に住んでいたので江間小四郎ということになる。
つまり、八重姫の最初の夫が江間次郎、2番めの夫が江間小四郎(義時)。伊東の最誓寺には、江間小四郎とその妻の八重姫が、千鶴丸の供養をした記録が残っているという。
しかしその後、なんらかの事情で、八重姫は義時と別れ、相馬師常(師胤)に再嫁したとするのは、『源平闘諍録』の記載。『源平闘諍録』は、千葉氏関係者によって作成されたものと考えられる。
また別の話では、八重姫は侍女6人と共に真珠が淵に身を投げたとされる。真珠が淵は、狩野川の支流にあたる古川と狩野川が合流するあたりで、韮山の北条館の近く。千鶴丸の殺害に責任を感じた侍女たちが身投げした可能性はあるのかもしれない。しかし民間伝説としては八重姫も身を投げたということになっていったのだろう。 (秋月さやか)