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都まではどれぐらい?平安鎌倉時代の旅事情  吾妻鏡の今風景14

治承四年旧八月十七日の頼朝旗揚げの知らせが福原の清盛のところに届いたのは、旧九月一日。つまり13日かかって福原に到達したということになる。(注・この年の旧暦8月は小の月なので29日まで。)
 
山木館が襲撃された時、山木の郎従たちの多くは、黄瀬川で酒盛をしていたという。館襲撃の知らせを受けて、館に走った者もいれば、緊急事態を知らせるために都へ出立した者もいただろう。
 
都といっても、それは福原の都。そう、治承四年六月から十一月まで、都は福原であった。清盛館(雪御所)は、現在の兵庫県神戸市兵庫区雪御所町、神戸駅から北西方向の場所で、大輪田泊(おおわだのとまり)は現在の神戸港にあたる。
 
三島から京まで(現在の道で)350km。京からさらに神戸まで80kmで計430km。当時の道はもっと長かったのではないかと思われるが、いちおう450kmとしておく。平安時代末期、京から三島までの350kmが3週間(21日)ほどかかっていたというので、京から神戸への1日をプラスして22日間ぐらいか。そこを13日で知らせが到達したというのは、当時としてはかなりのスピードとなる。
 
京から三島までの350kmを徒歩で仮に20日間とすると、350km÷20日=17.5km/日。「え?昔の人は一日50km歩いたって聞いたけど」と言う人もいるでしょう。それはたぶん、江戸時代になって道が整備され、常夜灯なども設置された治安のよい道を歩くことができた場合の話。


平安時代の道は、基本的には現代の里山ハイキングコースぐらいの感じと考えたほうがよい。途中にはさらに険しい登山道や川越え。平地なら1時間4km(時速4km)で歩くことができるが、里山ハイキングコースでは1時間に2kmと半分のペースとなり、山道ではさらにその半分で時速1kmぐらい。1日12時間歩いて普通の人が22キロ程度だったとするなら、計算としては里山ハイキングコースのペースでだいたい合っているかと。

しかし、ここでちょっと思い出してほしい。石橋山の戦い、旧暦八月二十三日の頃は台風だった、ということを。酒匂川は増水し、馬では渡れなかった。となれば、石橋山の戦いの数日前から西は大荒れで、その台風の中を、山を越え、川を渡り、ってどれだけ過酷な道のりだったのか。
大井川は、水が枯れていればそれほど大変な場所ではないと十六夜日記には書かれているが、増水していたとしたら。台風のさなかに大井川が増水していないわけがない。由比の海岸も打ち寄せる波で通ることはできなかっただろう。薩垂峠を行くとしても、嵐の峠越えを覚悟しなくてはならない。


箱根関所

急用なんだから馬を使ったに決まっているだろう? そうかもしれない。
450km、馬だったら時速60kmで8時間で・・・って、それは無理。馬は自動車ではない。まず、馬は時速60kmで長時間走ることはできないそうで、調べましたところ時速60kmで全力疾走できるのは5分程度が限界とか。(なので、赤兎馬は実在しない。)
早足というのが時速15km程度で(自転車ぐらいの速度)、1時間走ったら休み、また15kmぐらい走って休み、またまた15kmぐらい走るとその日はおしまいで、1日45km程度の移動だそう。(つまり、5時間で45km移動。途中で馬を替えれば、10時間でその2倍移動できるので1日90km移動は可能かとは思うが、45kmごとに馬を替えることのできる場所があるかどうか、ということが問題となる。)
常歩(なみあし)の時速5km程度なら、1日に約50km程度の移動は可能であるとする。東海道には川を渡る箇所や、足場の悪いところもあったので、これはたしかに馬のほうが有利であった。
 
馬は夜は走れないと言う人がいるようですが、そんなことはないそうで。
祖母の実家は、戦後になっても農耕馬を飼っていた北関東の豪農で、明治時代、祖母の祖父(つまり私の曽祖父)が料亭の寄合に出かけると、戻ってくるのは夜中。それも爺さまは、馬に牽かせた荷車の中で寝こけていたと祖母は言っていた。馬は夜目がきくので、放っておいても勝手に自分の家に帰ってくるのだとか。
というわけで、もしも馬を替えることができるなら、夜通し走ることもでき、もっと早く都に到達することもできるのかもしれないが、しかし、悪天候はどうしようもない。

ところで、文覚上人。旗揚げを渋っていた頼朝を決意させるために、後白河法皇から平氏討伐OKの院旨を貰ってきてやると言って出かけ、8日後に、院旨を持って戻ってきたという話がある。つまり、福原と伊豆の往復8日間。
仮に天候に恵まれて馬を途中で乗り継いで1日90km進んだとしても、片道5日間はかかるし、福原で法皇に会うのに1日は必要なので計6日間・・・。私は本気でこのあたりを調べてみたのだけど、いや、ちょっと待て。もしかしたら、もっと速い方法があったかもしれないと気が付いた。つまり、メール・リレーなら。修験者(山伏)の荒行では山道は基礎トレ、常人では考えられないほどのスピードで移動することも可能であっただろう。さらには修験者ネットワークもある。だから文覚上人が、「頼朝に平氏討伐させましょう、ついては院旨よろしく 」と書いて山伏に託す。これだけでよかったのではないだろうか。インターネット回線網のごとくに、祠ルーターを介してその手紙は山伏から山伏へ、通常の倍以上のスピードでの伝達が可能であったのではないか、と。

注・『吾妻鏡』には、頼朝の旗揚げに後白河法皇の院旨があったとは書いてありません。頼朝は「親王宣旨」(以仁王令旨)に従って旗揚げした。


 
さて今回、いろいろと調べているうちに、東海道を歩く現代人の方々がたくさんおられることがわかりました。江戸→京都を江戸時代とさほど変わらずに15日間ぐらいで歩くようですので、1日30kmペース。しかし30km歩くのってわりときついの。歩くのが健康の基本なのは、いつの時代も変わらないので、30kmぐらいはフツーに歩けるように、日頃から鍛えておかねば、ね。   (秋月さやか)

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