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石橋山の合戦、台風到来、酒匂川氾濫 吾妻鏡の今風景06
三島大社で兵を挙げた頼朝軍は、石橋山に陣を構えた。小早川の合戦とも称されるのだが、これは現在の早川、相模国早川荘。
治承四年(1180年)八月二十日、台風到来。これは、グレゴリオ暦でいうなら、だいたい9月11日頃になる。石橋山に布陣した源氏軍、300騎。旧暦八月二十三日には大雨で酒匂川が氾濫、頼朝に味方するはずの三浦軍が川を越せずにいる間に、開戦! つまり、天は頼朝軍に味方しなかった。
平家方は、大庭景親をはじめとし、俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実ら3000余騎。
300対3000。10倍の敵を相手にする戦い。『孫子』には、もしも敵の10倍の兵力があれば敵を囲むだけで勝てるとあり、実際、教科書通りに平家軍の勝利となる。
三浦の援軍がかけつけて800になっていたなら800対3000。孫子には、4倍の兵力の差なら、やり方によっては勝てるとしているので、源氏再興軍にとってはギリギリなんとかなるかもしれなかったわけですが、三浦軍間に合わず。
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石橋山古戦場。石橋からちょっと先の細い道を、急斜面の蜜柑畑に向かって登っていくと、佐奈田霊社がある。石橋山の戦いで討死した佐奈田与一義忠(岡崎義忠)を祀る、神仏習合の社(やしろ)。
佐奈田(真田)与一義忠は喉の持病のために味方からの呼びかけに答えることができずに敵に討たれてしまったという言い伝えから、咳、声、喉に霊験がある社とされている。
与一がまっさきに手柄をあげたということで、魁(さきがけ)の神様(魁秀明神)を奉じたとされるが、魁秀明神とは、はたしてどのような明神なのかがよくわからない。斗魁といったら北斗七星の、第一星から第四星までの4つの星が描く枡の部分で、北斗七星は魁(枡)の部分を上にして昇ってくる。となると魁秀明神とは、修験道の盛んな当地の妙見信仰の流れをくんだものではないか、と思われるが、この話については、いずれまた。
社を管理している寺のご住職に「明治の神仏分離をどのようにのり越えられたのですか」と伺ったら、「特別なお社なので、政界や財界にも信じる方が多く、護られたのでしょう」ということで、寺と神社が同じ敷地内にある。
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与一が敵方の俣野景久を組み伏せた畑は「ねじり畑」として、ここに植えた作物が全てねじれてしまうという言い伝えが残る。「これこれの由来が」と言われてから見れば、たしかに蜜柑の木がねじれているような気がしないでもなく、ねじれた木さえもありがたく。
さて、300騎の源氏再興軍は大雨の中を敗走し、いったんは箱根神社をめざすが、のちに湯河原土肥の山中に逃げ込む。山中の大椙(大杉)の根元の空洞の中に隠れたところ、捜索にやってきた梶原景時が「居り申さぬ(おりもうさぬ)」と告げて頼朝を見逃すという、超有名な見せ場の舞台。
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箱根ターンパイクから湯河原へと降りる県道75号線の途中に、土肥の大椙(大杉)の碑がある。ここからさらに細い山道を降りたところが大椙跡で、大正6年(1920年)までは杉があったとされる。つまり今はない。
現地までの道は険しく、他の方のブログには獣道と書かれていました。獣道というほどではないが、一般人が通る道にしては険しく、それなりの覚悟は必要で(2013年に行った時には)スマホは圏外になるので、遭難に注意。
湯河原城山のしとどの窟(いわや)は、やはり県道75号線の途中の、椿台という展望台から白金林道に向かう途中を、谷に向かって降りていったところ。梶原景時の「居り申さぬ」は、このしとどの窟での場面であった、という解釈もある。
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「しとど」は、ぐっしょり水に濡れるさまをあらわす言葉で、なるほど、城山のしとどの窟は、岩肌からたえず滴る水音が窟内に響き、あたかも天然の水琴窟のごとくでありました。
その水滴が集まって流れとなり、川となってやがて大海へ。こののちの頼朝一行は、水滴の流れのごとくに山を下り、真鶴の浜から海へ、そして安房をめざすのでありました。 (秋月さやか)