坂東平氏たちと、平家(清盛一門) 吾妻鏡の今風景13
源氏が出たので、平氏(へいし)のことも書かなくっちゃ不公平だから。平氏とは、平を名乗る者たちのこと、平朝臣(たいらのあそん)の子孫。
たぶん、桓武平氏だけを覚えておけばOKかな。(というか、桓武平氏以外の系統についてはわからないので、試験には出さないで~)
桓武平氏→50代桓武天皇の4人の親王の子孫。
仁明平氏→54代仁明天皇(嵯峨天皇と檀林皇后の子)の孫の雅望王、行忠王、惟時王の子孫。
文徳平氏→55代文徳天皇(父は仁明天皇、息子は清和天皇)の皇子、惟彦親王の子孫。
光孝平氏→58代光孝天皇(仁明天皇の第三皇子)の孫の式膽王、興我王、忠望王の子孫。
50代桓武天皇。平城京から長岡京および平安京への遷都を行った天皇で、その4人の親王、葛原親王(かずらわらしんのう)、万多親王(まんだしんのう)、仲野親王(なかのしんのう)、賀陽親王(かやしんのう)の子孫が、平朝臣の氏姓を賜ったことから。
葛原親王の三男が高見王で、その子が(平)高望。昌泰元年(898年)に上総介に任じられ、「上総介従五位下平朝臣高望」となる。高望の息子の国香は常陸大掾に任ぜられる。大掾とは国司の位で、トップは守(かみ)、その下が介(すけ)、その下に掾(じょう)、そして目(さかん)となる。しかしトップの守が現地に赴任するとは限らず(赴任しないケースも多い)、実際の業務を取り仕切っていたのは、次官である介(すけ)であった。掾(じょう)は介の下で、判官、目(さかん)は、さらにその下の雑務係となる。(注・目代(もくだい)とは違う。)
国香は、常陸大掾の前任者の源護(みなもとのまもる)の地位を受け継ぎ、その娘を娶って、常陸国筑波山西麓の真壁(茨城県筑西市)を本拠地とする。しかしのちに、甥の平将門に滅ぼされる。
将門を討ったのは国香の息子の貞盛(と藤原秀郷との連合軍)で、貞盛は常陸に所領を得て、弟の繁盛の子の維幹を常陸国の大掾職とする。繁盛の子孫が代々その役目を受け継いでいるうちに、大掾(だいじょう)と名乗るようになる。職名を名字にしてしまったわけだ。鍛冶屋を営んでいた一族が、名字を鍛冶にしてしまうケースはありうると思うが、役職名を名字にしちゃうというのは、あまり聞かない。どこかの会社の部長を、周囲が部長と呼んでいるうちに、いつの間にか名字が「部長」なってしまったような、それが常陸大掾平氏ということになる。
国香の弟の良将は、常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発し、下総国相馬郡の犬養氏の娘を妻として生まれたのが将門。
桓武天皇→葛原親王→高見王→(平)高望王→良将→将門
そして、将門の跡を継いだのは、平良文。良文は、国香の異母弟。つまり高望王の側室の子で、仁和2年(886年)旧3月18日に京で生まれたとされる。生年月日が判明しているということは、母親の身分はそれなりに高かったと思われる。醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向。ただし、仁和2年(886年)生まれだと、延喜3年(903年)に生まれた将門よりも年上になってしまうし、血縁関係でいえば、良文は将門の叔父にあたるわけだが、とにかく良文が将門の養子になって跡を継いだ。
桓武天皇→葛原親王→高見王→(平)高望王→良文
良文の子孫が、居住地を名乗って千葉氏、上総氏、下総氏となり、
さらには、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏、梶原氏、大庭氏…などなどにもなっていく。つまり、坂東武者たちのほとんどのご先祖が良文。
良文→忠頼→常忠→常将→常長(常長の息子たちが、千葉氏、相馬氏、上総氏。)
良文→忠頼→将恒→(秩父)武基→武綱→重綱
良文→忠光→忠通→(三浦)為通
ところで、(将門に討たれた→)国香の息子の貞盛(←将門を討った)の子が維衡(これひら)。武芸に秀で、藤原道長に仕えて道長四天王といわれ、下野守、伊勢守、上野介、常陸介などに任じられ、のちに伊勢国に地盤を築いて伊勢平氏の祖となり、さらにその先、清盛へと繋がっていくのでありました。
桓武天皇→葛原親王→高見王→(平)高望王→国香→貞盛→維衡→正盛→忠盛→清盛
平氏は西国、源氏は東国などというけれど、坂東武者は平氏であった、ということ。坂東武者、京で華々しく活躍した平家、そのいずれもが良文の子孫!
が、国香の息子の貞盛の母親は源護(注・嵯峨源氏)の娘なので、その子孫には嵯峨源氏の血も流れていることになり、貞盛の子孫は、平家と源氏のハイブリッドということになるのか、と。
ちなみに、平家というのは、平氏の中でも、清盛一門のことだけをさす名称だそうです。(と、歴史の本で読みました。)
(秋月さやか)
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