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頼朝の夢枕に立った稲荷神 初午の縁起と謎 吾妻鏡の今風景54

 伊豆の蛭が小島にいた源頼朝の夢に老人が現れ、平家討伐の時節が到来したと告げて挙兵をうながす。頼朝が老人の正体を訪ねると、「隠れ里の稲荷」であると名乗る。稲荷…稲荷神が老人の姿で?
 
 稲荷神のご神体は『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で女神。老人ではありません。そして狐でもない。狐が稲荷の眷属となったのは、穀物を食い荒らすネズミを退治することから。

 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、須佐之男命と神大市比売との間に生まれた娘で、稲藁を持った女神。その兄が大年神(おおとしのかみ)なので、兄妹で年の収穫を司る役割を担っていたと思われる。
 『日本書紀』においては、イザナギとイザナミから生まれた女神で、のちに豊宇気毘売神(とようけひめ)、大気都比売神(おほげつひめ)などと習合していく。


佐助稲荷にて

 稲荷神の総本山、伏見稲荷の稲荷山は、かつて古墳であり、二神二獣鏡が出土している。つまり、渡来系の秦氏が祀っていた神が稲荷神の正体ではないかと考えられている。そもそも米は大陸から渡来人がもたらしたものなので、日本古来の神を祀っているとも思えず、稲作の女神は、渡来人の神であった、と考えてもよいのではないだろうか。だから、『古事記』において、稲作の女神の存在感は薄い。
 
 のちに稲荷神(宇迦之御魂神)と荼枳尼天(だきにてん、ヒンドゥの鬼神ダーキニー)とが習合する。
 ダーキニーはヒンドゥ教において女神カーリーの侍女(眷属)で、その正体は雌のジャッカル。死肉を食らう獣。
 ダーキニーが仏教に取り入れられたことで、その姿はジャッカルに乗る女神(夜叉)となる。漢字ではジャッカルを含めた夜行性の狡猾な獣を犴(かん)と呼ぶ。しかし中国にはジャッカルはいないので、これを狐の姿とした。日本に伝わった時には、ダーキニーが狐に乗る姿となっており、稲荷の眷属の狐と混同されて、荼枳尼天(ダーキニー)は稲荷と習合する。
 女神カーリー(そしてダーキニー)にはそもそも太母神としての性質(死を司る)があり、死を司るものは再生をも司ることから、豊穣をもたらす、となっていったのかと。

こちらは笠間稲荷の参道脇の神具店の店先

 では、なぜ頼朝の夢枕に立ったのは、女神ではなく、荼枳尼天でもなく、老人であったのか。
 たぶんこの老人は宇賀神。宇賀神とは、弁財天の頭の上に乗っている老人の頭、といっても本来は老人の頭に蛇体の神であった。中国神話において、下半身蛇の女神と、やはり下半身蛇の男神のペア、女媧(じょか)と伏羲(ふくぎ)がいる。伏羲と女媧は兄妹で、大洪水ののち、二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったとされる。つまり、渡来人が稲荷山に祀っていたのは、伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)だったのではないか?それがいつの間にか、女神としての宇迦之御魂神だけが残り、そして、日本古来の豊宇気毘売神(とようけひめ)、大気都比売神(おほげつひめ)などと習合していく。


鎌倉駅西口から鎌倉市役所の先、トンネル抜けて佐助1丁目の信号を山のほうに登っていくと近道ですが、反対側からの一方通行なので、車は入れません。

その「隠れ里の稲荷」の老人(宇賀神)の居場所は佐助稲荷であり、そのすぐ隣にあるのが銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてんうがふくじんじゃ)で、こちらは弁財天の神社。
 女媧は、ヒンドゥのサラスバティーと習合して、弁財天になっていった。が、頼朝の夢枕に立ったのは、伏羲としての宇賀神であり、だから老人の姿であったのではないか、と。(注・これは筆者の想像です。)


佐助稲荷への案内板


さて、初午。春の農耕開始前に稲荷神に五穀豊穣を祈る日で、それは、旧暦二月の最初の午の日に行われる。
 注→旧暦二月の最初の午の日がいつになるのかは、あとで書きます。


「しもつかれ」のベース食材、大根は、竹製の鬼卸でおろす

 

アイスクリームではないのよ、酒粕。


これは煮大豆ですが、正統派しもつかれは、節分の煎り豆の残りで。


 初午には何をするのかというと、「しもつかれ」を作ってお供えし、食べる。「しもつかれ」は、大根をすりおろしたものに、酒粕と、節分の煎り豆の残りを混ぜて、煮る。(注・煮ないで作る人たちもいます。)さらには正月の塩鮭の残りも入れる。「しもつかれ」は、たぶん鎌倉時代にも作られていたと思われる。現代では、栃木、および筑波山周辺で作られている。

 それと赤飯。赤飯を藁苞に入れたものを稲荷神に供える。
 え?稲荷寿司も供えるでしょう?と思った人、平安時代には、まだ油揚げはなかったので、稲荷寿司もありません。

 

赤飯を藁苞に入れて供える

 さて(なんとここからが本題で)、
 言い伝えによれば、和銅四年(711年)、稲荷神が伏見稲荷大社に降臨した日の日支が、その月の最初の午(初午)であったため、初午を稲荷の縁日としたという。和銅四年(711年)といったら、その前年和銅三年(710年)に元明天皇が平城京へ遷都したので、つまり、平城京の時代から、延々と続いている行事が初午ということになる。

 では、旧暦二月とはいつか。暦月でいうなら春分を含んだ朔望月。節月でいうなら二十四節気の啓蟄からの一か月、十二支月の卯月。

 和銅四年の旧暦二月初午を、国立天文台の暦計算室で調べてみました。以下、その手順。
(注・当時の暦は平気法で、現代の暦が採用している定気法の暦と比べると、1~3日遅れます。)

1・711年の春分の日をみつける。
国立天文台 > 暦計算室 > 暦象年表 >二十四節気雑節長期版
→ユリウス暦なので3月21日ではなく711/03/18 07:34が春分(注・平気法の春分は2日ほど遅い)

2・3/18(春分)前の新月をみつける。
国立天文台 > 暦計算室 > 暦象年表 > 朔・弦・望 長期版
→711/02/22 17:03 朔
(当時の暦は平朔だったので、これも1日ぐらいはずれているかも)

2・春分前の朔(旧暦二月ついたち)711/02/22の日干支を調べる。
国立天文台 > 暦計算室 >日本の暦日データベース
→711/02/22 和銅04年02月01日 日干支 丙子 (ひのえね)

3・
日支が午になるのは、子の6日後。
711/02/22の日支が丙子、その6日後、711/02/28が壬午。

 朔望月で考えるなら、初午は711年2月28日(和銅四年二月七日壬午)

 節月で考えるなら、711年の啓蟄(卯月のはじまり)は3/3(注・平気法ではこれより1~3日ほど遅い)なので、初午は711年3/12(旧暦二月十九日甲午)

では、この要領で2025年の初午を探します。
1 春分は2025/03/20(注・定気法)

2 春分以前の新月は2025/02/28、この日が旧暦二月一日。
 旧暦カレンダーでは干支もわかるのでそのまま3へ進み、2025/02/28(戊辰)。旧暦カレンダーの干支から、02/28以降の最初の午の日を探せばよいのだが、それは2日後の、03/02(旧暦二月三日庚午)

 もしもこれが節月(十二支月の二月、つまり卯月)なら3/5が啓蟄なので、それ以降の午日、3/14(旧暦二月十五日壬午)

 しかし、最近の旧暦カレンダーの初午は、3/02ではなく、3/14でもない。なぜか。明治の改暦から、旧暦ではなく新暦の2月の午の日を初午にしてしまったため。
 ですので、2025年はグレゴリオ暦の2月6日に初午を行う神社が多かったようです。(まだ旧暦1月、春分まではあと1か月半もあるのにね。)


笠間稲荷


笠間神社前の商店街、二ツ木、稲荷寿司のお店


関東の稲荷寿司は醤油の効いた味。醤油も稲荷揚げも、江戸時代に入ってから広まった。





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