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秋風ぞ吹く白河の関、歴史が行き交う奥州街道  吾妻鏡の今風景42

 文治五年(1189年)、閏四月三十日(グレゴリオ暦6/15頃)、平泉衣川館にて義経自害。義経の首は六月十三日に鎌倉へと届けられた。
 頼朝は武士たちを召集し、奥州へと攻め入った。3つの隊列が鎌倉から奥州をめざす。
 頼朝の大手軍は、文治五年(1189年)七月十九日(グレゴリオ暦9月1日頃)に鎌倉を発ち、中道(なかつみち)を通って奥州へ。

 鎌倉から奥州へと向かう道は2つあり、1つはかつて八幡太郎義家が奥州へと向かった道、下総、常陸を抜けて岩城(いわき)から奥州をめざす。文治五年の奥州攻めでは、千葉常胤、八田知家が率いる東海道軍が、この下道(しもつみち)を通って奥州へと向かった。

 もう1つは中道(なかつみち)で、板橋から岩淵で川を渡って岩槻へ、幸手、栗橋、古河、小山、下野へと向かう道。鎌倉からだと、丸子の渡しから洗足池、世田谷、そして板橋へ。

 世田谷駒繋神社、文治五年、頼朝が奥州征伐の際に馬を境内の松に繋いで戦勝祈願したと神社の由緒に記されている。かつて八幡太郎義家が、天喜四年(1056年)、前九年の役でこの神社に参拝したことに倣っての参拝であった。神社の縁起によれば、この時、頼朝が乗っていた馬は葦毛。池月だろうか。
 八幡太郎義家は、駒繋神社から穴八幡、浅草、下道を進んで国府台、そして常陸へと向って奥州をめざしたが、頼朝は駒繋神社から板橋、岩淵水門で川を渡って、幸手、古河、小山、下野へ。

 古多橋(宇都宮)で宇都宮社(二荒山神社)に戦勝祈念したのが七月二十五日。
 そこに常陸の佐竹隆義が参じた。(金砂郷の戦いに敗れて山野を逃げ回り、猿に食べ物をめぐんでもらって生き延びた佐竹秀義の父親。)かつて平家方についていたメンバーも、次々に頼朝のもとへ集う。

 古多橋(宇都宮)から、(たぶん鬼怒川に沿って那須塩原へと向かい)、白河へ。






岩淵水門近く、北区からR122でしんかし川を渡って埼玉へ。

 七月二十九日(グレゴリオ暦で9月10日頃)、白河関を通過。

 梶原景季が「秋風に草木の露を払わせて 君が越ゆれば関守も無し」と歌を詠む。本歌は、能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」。

 頼朝が白河の関を越えるより三年ほど前、文治二年の秋、西行法師がこの関を越えて奥州へと向かった。
 「みちのくへ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が秋風ぞ吹く、と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける、白川の関屋を月のまもる影は人の心を留むるなりけり」え?建物の柱に?書きつけた? 
 西行法師は、東大寺の大仏建立の資金調達(勧進)に、鎌倉へ立ち寄ってから平泉へと向かった。西行が鎌倉を発ったのが八月十六日、馬ではなく徒歩、白河の関までどのぐらいかかったのだろうか。

 義経が奥州へと入ったのが文治二年の暮、西行は義経がやってくる前に奥州にいたことになる。入れ違いなのか、あるいは、どこかですれ違っているのか。







 さて、奥州の入り口とされる白河の関はどこにあるのか?
 白河の関を見に行って「こんなところに?!」と思った人は多いでしょう。現在、白河の関と言われている場所は、正確には白河神社です。たぶんここが関の明神であったのだろう、ということになっており。しかし白河神社の前の道、伊王野白河線は細い道で、ここがかつて奥州街道だったとは、とても思えない。
 旧奥州街道はR294、その道沿いには境の明神という神社があるのだが、そこは関の明神ではない。
(R294を北に向かって走っていくと、そろそろ福島との県境というあたりで出てくるのが境の明神。おお、ここが白河の関か!と思いましたよ、その時は。そのあとで、白河神社はどこ?と探して道に迷いそうになりましたが。)


 白河の関の場所は、長らく不明であった。
 平安時代末期には、ほとんど機能していなかったらしい。もともとが蝦夷の侵入を防ぐという目的で設置された関であり、蝦夷が攻めてこないならもう必要はない。その誰もいない廃屋となった建物の柱に、西行が歌を書きつけたのだろう。
 
 さらに時代が過ぎるにつれて建物は朽ち、あとかたもなく忘れ去られてしまった。芭蕉が奥の細道を歩いた時、やはり境の明神が白河の関、と思ったらしい。のちに、里人に、白河の関跡はもっと東の山の中にあると聞いて尋ねて行ったという。

「訪れた心もとなき日数重ねるままに 白河の関にかかりて 旅心定まりぬ」
 いや、定まらない。本当にここが白河の関なのかどうかもわからず、実に落ち着かない。
 江戸時代になってから白河藩主松平定信が、白河神社の建つ場所を白河の関跡であるとしたそう。最近の発掘調査では、白河神社の周辺からいろいろなものが出土しているそうなので、まあ、ここが白河の関だった可能性もあるのでしょうか。どうも定まらないなあ。

 奥州街道。坂上田村麻呂が、阿弖流為(あてるい)が都へと向かい、八幡太郎義家が通った道、金売吉次が都へ向い、義経が佐藤兄弟を引き連れて富士川をめざし、西行法師が奥州へと向かい、大量の金が都へと運ばれた道。そして、頼朝軍が奥州へと向おうとしている道。

 頼朝が白河の関を通過したのが七月二十九日。月のない暗い晩、次の上弦には厚樫山を陥落させ、十四日には玉造郡(鳴子温泉のあたり)へ、そして二十一日には平泉滅亡。九月二日、厨川柵へ進軍。翌九月三日、泰衡は配下の河田次郎に殺害された。
 九月二十八日、頼朝は鎌倉へと向かう。白河の関を通ったのは十月十五日ぐらいのことではなかったか。秋の終わりの煌々とした満月を眺めながら。







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