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垸飯(おうはん)、鎌倉幕府のオフィシャル正月宴会 吾妻鏡の今風景51

 正月といっても我が家は特別なことはしません。れんこんきんぴら、柚子入り大根なます、里芋の煮物。蒲鉾(市販品)、昆布巻(市販品)、磨き鰊煮つけ(市販品)ぐらい。雑煮は関東風ですが、具は大根、蒲鉾、菜花でシンプルに。

 しかし私が子供の頃の我が家の正月はそれはそれは大変だった。なにせ正月の二日には大勢の来客が押し寄せる。父の職場の人たち(父の部署の部下)。御節のカマボコぐらいじゃ酒の肴にはならず、活躍していたのはハム。(お歳暮でやってきた)ハムを切って大皿に並べ、チーズ、キュウリ。きんぴら、揚げ物、ぴり辛こんにゃく、白菜浅漬け、なんかいろいろ。私の母は料理があまり好きではない(そして上手でもない)人だったので、正月の料理はほとんど母方の祖母が作っていましたが。
 来客のみなさん夜遅くまで宴会、飲み倒れた方は、客間に布団を敷いてお泊り。(その方は翌日、朝の雑煮を召しあがってお帰りになる。独身者などはたいていこのパターン。) 正月に上司の自宅に行って飲み会なんて、昭和の伝説の記憶でしょう。


「日本の行事料理」(タイムライフブックス)P199より、原画は京都・三時知恩院にあり、室町時代の酒宴の様子

 さて、『吾妻鑑』によれば、正月の三が日には垸飯(おうはん)を献じる。献じる? つまり御家人が将軍に食事を献じることで、この時の食事が垸飯(おうはん)。垸飯(おうはん)がのちに椀飯(おうばん)となる。「椀飯(おうはん)」は椀に盛った飯のことになり、その椀をふるまうのが「椀飯振舞(おうばんぶるまい)」となっていくのだが、丼飯をふるまうような感じではなく、もっと豪華。

「建久二年(1191)正月大一日庚戌 千葉介常胤献垸飯」
 建久二年、正月一日、つまり元日。千葉介常胤が垸飯を献じた。
 といっても頼朝様だけに献じたわけではない。儀式に参加するメンバー全員の食事を用意するのが垸飯(おうはん)であるので、会食の主催担当者、これは名誉な役目であった。

「建久二年(1191)正月大二日辛亥 御垸飯〔三浦介義澄沙汰〕三浦介義澄持參御釼」
 正月二日の垸飯担当は三浦介義にその沙汰があり、三浦介義澄は、釼(けん、両刃の剣のこと)を持参して献じた。(その他にも、砂金だとか鷹の羽だとか馬だとかいろいろと献じた。)

「建久二年(1191)正月大三日壬子 小山右衛門尉朝政献垸飯」
 正月三日には、小山右衛門尉朝政が垸飯を献じた。小山朝政、小山氏二代目当主。さらに朝政は砂金と馬、朝政の兄弟たち、小山五郎宗政は弓箭(きゅうせん、弓と矢)、小山七郎朝光は行騰(むかばき)、沓(くつ)を献じた。頼朝様の身の回りの品って、御家人たちからの献上品だったわけですね。


相模湾の鯛。の頭と中骨。

 その垸飯(おうはん)のメニューがどうであったのかの記録はほとんどない。が、京の公家たちの節会(御節供)を参考にした料理であったに違いない。正月なので、屠蘇と餅は必須。
そして鎌倉時代に用いられていた食材は以下。

海、湖のものとしては、
鮑(あわび)、あわびを薄く切って叩いて伸ばして干した熨斗あわび。打ちあわび、とも言うのは、叩いて伸ばすから。不老不死の妙薬、伊勢神宮への献上品であった。ただし、熨斗あわびをどうやって食べていたかが、よくわかりません。食べたこと、ありませんもの。
昆布(こんぶ)、干した昆布を戻して煮る。すでに子持ち昆布を食べていたらしい。(数の子については不明)
鯛(たい)、相模湾は鯛の漁場なので、当然、鎌倉の海にも鯛はあがっている。それも立派なのが!
鰹(かつお)、堅魚(かたうお)と呼ばれる干鰹、伊豆では古くから作られていた。それを堅魚煎汁(かつおのいろり)、出し汁にして用いる。
鰯(いわし)、干し鰯。つまり煮干し。
鮭(さけ)、当時、多摩川までは鮭が遡上していたので塩鮭はあったはず。
海老(えび)、干したものを焼くか茹でるか。
鮒(ふな)、塩と米麹で発酵させた熟れ鮨にしていた。
鮎(あゆ)、押鮎は塩漬けの鮎で、新年には欠かせない縁起モノ。
その他、蛤(はまぐり)、帆立(ほたて)、蛸(たこ)など。

平安時代、魚を生で食べる場合は、塩や酢で味付けしたマリネみたいなもの、なますにしていた。
加工食品として蒲鉾はあった。しかし現在のような板蒲鉾ではなく、竹筒のまわりにすり身をつけて焼いた、竹輪(ちくわ)。その原料はナマズ。

陸、空のもので肉としては、
鴨、雉、山鳥。つまり野鳥。鶏は食べない。時を告げる鳥であるため。
獣肉は、猪、鹿、兎、ジビエ。馬、牛は使役動物なので食べない。(戦いの最中は例外としても。)
卵は食べない。鳥の卵を食べると悪いことがある、と信じられていたので。

野菜は、
大根、かぶ、瓜、芹、菜(菜の花)、野蒜。ごぼう、蓮根、里芋、人参などの根菜。しいたけは干して保存、戻して煮た。
ただし、干瓢はなかったらしい。見出し画像の昆布巻きには干瓢が巻かれていますが、干瓢は室町時代に入ってから、のようです。
大豆はもちろん重要な植物蛋白源、すでに京では豆腐が作られていたらしい。小豆(あずき)は赤い色が魔除けになるとして好まれたので、赤飯はあったと思われる。黒豆を煮たものもあったらしい。

果実は、
柚子(ゆず)、古くから日本に自生している。
蜜柑(みかん)、大陸から渡ってきたが、京の都では温暖な地方で栽培したものを取り寄せていた。現在、三浦では蜜柑の育成結実が可能。
柿(かき)、干し柿は最高のスイーツ。
栗(くり)、乾燥させて堅栗(かちぐり)に。
梅(うめ)、大陸から渡ってきた。梅酢にして調味料とする。

調味料は、
塩、梅酢、酒、穀醤(こくびしお)。
穀醤(こくびしお)とは、小麦、大豆、塩、麴などを混ぜて発酵させたもの、味噌のルーツ。醤油はありませんでした。

調味料として山椒が使用されていた可能性は高い。
わさびはあったが、薬草だったので調味料としては用いられていない。
油はあったが(ごま油、あけび油など)、揚げるという調理方法が行われていたかどうかは不明。

熨斗あわび、焼いた鯛、鴨肉、塩鮭、煮蛤、煮海老、子持ち昆布、熟れ鮨、黒豆、大根なます、根菜の煮物、黒豆、竹輪かまぼこ、などなどが並んだ豪華メニューであったと思われる。ただし、卵は使わないので、伊達巻はない。

なお、鎌倉時代には、かぼちゃ、さつまいも、とうがらし、はなかった。


煮干し。

鎌倉時代の料理には、味付けがなされていなかったので美味しくなかったみたいなことを書いておられる方がいますが、それは違うでしょう。
相模湾の鯛を(たとえばBBQで)焼いたとしたら、美味しくないわけがないでしょう?
堅魚(かつをを干したもの)はあり、出し汁もあったようです。昆布もするめも、出し汁に活用可。
獣肉(ジビエ)を焼いたものに好みで塩か梅酢、醤(ひしお)をつけて食べる、うん、いいんじゃない。
手がかかっているのは、熨斗あわび、竹輪(ナマズ原料のちくわ)、熟れ鮨(鮒、鮎)あたり。


芋といったら里芋。だって鎌倉時代、サツマイモもジャガイモもありませんでしたので。

鎌倉時代は衛生状態が悪かった、ということも言われていますが、塩や酢が腐敗を防ぐという知識はあり、輸送の関係上、干物が多かった。生魚を食べる場合は刺身ではなく、なます。つまり塩か酢に漬けたマリネ。
獣肉は、醤(ひしお)につけこんだり、干し肉にしたり。
万が一、腐ったものなど出してトラブルがあったら主催者の責任ですので、できるかぎり気を使っていたはずです。

(平安時代末期の菓子については、のちほど改めて。)

               


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