見出し画像

源三窟、那須塩原に落ち延びた頼政の子孫たち  吾妻鏡の今風景43

那須塩原、源三窟。源三位頼政(げんさんみよりまさ)の孫、源有綱が隠れ住んだという伝説の洞窟。
 源三位頼政が塩原に落ちのびて洞窟に潜んだのか、と思ってしまうような紛らわしいネーミング。しかしそれはなかろう、では、家来の誰かが頼政の首を隠した洞窟?いや、そういうことではなかった。
 源三位(頼政の孫、有綱)が隠れ住んだ洞窟、です。(頼政の孫、有綱)が省略されていますが、あまりにも省略しすぎ。

 有綱は一説には義経の娘婿とされるが、これはさすがに無理があり(と他の方々も書いておられ)、常盤御前が再婚した一条長成との間に儲けた娘、常葉の婿であったらしい。つまり義経の妹婿、義弟。常盤御前の娘婿の有綱。(常盤御前の)が省略されているので、意味がわからなくなってしまったのでしょう。

 婿を、婚姻を通して一族に迎えた男子の一般的な呼称と考えるなら、大意での辻褄は合いますが。

 ところで、自分の妻を「嫁」と呼ぶ人たちがいます。どうにも違和感があります。父が母のことを誰かに紹介する時には「家内」、もしくは「つれあい」でした。これが鎌倉時代なら室ですか。父方の祖父母は、母のことを「長男の嫁」と紹介していましたが、旧時代の家長の立場からするなら、たしかにそういうことにはなります。が、当事者どうし(夫婦)が、相方を「嫁」「婿」と紹介しあうのは、さすがに不自然です。これは大家族制度の中のポジションをあらわす呼称だからです。封建的で特殊な大家族であれば、そういう呼び方をすることもあるのかも、しれませんが。
 私の叔母は、自分の娘(私の従妹)の夫を、他の人に「うちの婿さん」と紹介します。いや、婿に貰ったわけではないので、その呼び方はいかがなものか、そういう昭和(というか戦前)な言い方は恥ずかしいので、「娘のつれあい」と紹介しなさいよ~、と私は言います。嫁とか婿とかいう呼称は、貰うとか貰われるとか、旧時代の家制度における所有権が発生する呼称であるという印象が、どうにも否めない。

 さて、(常盤御前の)娘婿の有綱は、義経が吉野山から姿を消したのち、大和国に逃亡。そこには常盤御前と義経の異父妹、常葉(つまり有綱の妻)がいた。(大和国で有綱が討たれたことになっている文献もあるが)、有綱は大和からさらに塩原に逃れたとする。

 なお、常盤御前の生んだ一条能成(義経の異父弟)は、一時、義経の都落ちに随行していた。が、いつの間にか(一条家に)戻り、官職剥奪となり、その後しばらくはおとなしく身を隠していたらしい。

 塩原へと逃亡した有綱は、洞窟内で落人となって暮らしていた。山中に隠れて暮らす平家の落人部落というのがあるが、こちらは源氏の落ち武者洞窟。
 洞窟内に流れる滝水で米をといで飯を炊く日々、しかしその米のとぎ汁が洞窟の外へ流れ出たことにより頼朝軍に発見され、文治二年(1186年)六月十六日、無念の最期を遂げたのであります。
 米のとぎ汁。非常時には無洗米を使うほうがよろしい。いや、そういう話ではないが、米をとぐ余裕があるということは、都育ちの落人ということになるのかと。なお、平家の落人部落でも、米のとぎ汁を川に流すのはタブーであったようです。
 
 で、なぜ塩原なのか?
 治承四年(1180年)、以仁王の乱、「橋合戦」で頼政が破れたのち、頼政の次男頼兼、三男広綱らが塩原八郎家忠を頼って那須塩原に逃れた(という話があるらしい。)
 奥州に近く、京からはるかに離れた塩原の地。(たぶん)、一族の誰かの妻が塩原氏の出身だったのかもしれない。頼政の知行国だったかどうかは、調べたけれどよくわかりませんでした。
 しかし頼兼、広綱らが塩原に逃げ込んだことは近隣の那須一族に伝わった。当時、平家方についていた那須資隆と、塩原氏との間で戦が起こる。が、八月に源頼朝が旗揚げ、那須資隆のところへも、源氏について平家攻めに参加するように、との通達がやってくる。さらには奥州から義経がやってくる。那須資隆は源義経を出迎え、塩原との戦を中止、十男と十一男を源氏に味方させることにする。那須与一(なすのよいち)は、資隆の十一男、那須与一宗隆。与一とは、十与一(じゅうよいち)、11という意味。


那須の与一。馬の名前はわかりません。


 その源三窟を見てまいりました。
 2018年のことで、見学者は私一人、貸し切り状態。けっこう足元が危うい。洞窟を見るだけではなく、源氏の家系の説明などもしていただけます。写真はすべて許可をとった上で撮影しています。


看板猫の、茶々。



鍾乳洞なので中は寒いです。




 頼政の長男仲綱の息子、頼成(有綱兄弟)は、美濃国の田代神社を信仰し「田代冠者頼成」を名乗っていた。のちに塩原に居住、頼成の子孫は田代の名字を名乗っているのだそう。ご子孫が経営している温泉宿「和泉屋」、(当時はまだ営業していたが、その後、廃業)、建設会社をなさっている方もおられるとのことでした。
 那須塩原温泉、お湯はたいへんに素晴らしく、風情も歴史もあります。が、車の出入りがちょっと不便。まあ、温泉街は、川沿いの細い道に立ち並ぶ不便さもまた、風情の1つではありますが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?