黄瀬川の兄弟対面、頼朝の兄弟たち 吾妻鏡の今風景17
黄瀬川(木瀬川)は、御殿場から沼津に向かって北から南へ流れ、旧東海道は三島を東西に走り、黄瀬川と旧東海道が交差するところに黄瀬川橋がかかっている。
(注・旧東海道は、三嶋大社の前を通る県道145。旧東海道と平行して走る県道380は旧国一通りと呼ばれるが、平安時代の旧東海道ではない。)
平安時代末期、黄瀬川に橋はなく、渡し場があった。黄瀬川橋の東側に黄瀬川八幡があり、そこが富士川の合戦における頼朝軍の本営。
富士川の合戦ののち、義経が駆けつけ、兄弟の対面。有名な兄弟対面の舞台であります。
が、義経よりも前に、下総国鷺沼の鷺沼館(千葉県習志野市鷺沼)で、全成がすでに感激の兄弟対面をしていた。たぶん黄瀬川の本営には全成もいたので、全成(今若)と義経(牛若)の兄弟対面も当然あったと思われるが、吾妻鏡にはその記載はない。
範頼については、いつ、どのようにして頼朝と面会したかは不明で、その名前が歴史に登場するのは、治承五年の下野国野木宮合戦から。黄瀬川にはまだ馳せ参じていなかった。
ところで、野木宮合戦は治承五年じゃないだろう、と突っ込まれると思いますが、吾妻鏡ではその日付になっていますので、吾妻鏡に従って、今後の話をすすめていきます。なにとぞご了解くだされ。
では、頼朝の兄弟たちについて。
乳幼児死亡率が高かった時代にあって、元服前に早世した男子については伝わっていない。姉妹は、坊門姫のみが伝わるが、他にも姉妹は幾人かいたと思われる。
早世した義門(四男)以外は、討ち死に、斬首、自刃、事故(落馬)などによって生涯を終えている。当時の平均寿命は現代より短かったとはいえ、老人になることのできたメンバーはひとりもいない。そう、ひとりも。
源義平(義朝長男)
生年は永治元年(1141年)。母は三浦義明の娘と伝わる。鎌倉悪源太。身内の内紛で、叔父の義賢の大蔵館を襲撃し、義賢を討ちとる。この時、15歳。(義賢の息子が義仲)。平治の乱では19歳。父義朝と共に戦い敗走、穴馬郷(福井県大野市)に身を隠す。清盛を討ち取ろうと京に向かい、近江国の石山寺に潜んでいたところを捕えられ、六条河原にて斬首。穴馬郷の朝日助左衛門の娘は、のちに義平の娘を生み、義平の形見の笛が、朝日家の家宝として受け継がれているという。
源朝長(義朝次男)
生年は康治2年(1143年)。母は波多野義通の妹。波多野氏の先祖は、かつて源頼義の家人であった。朝長は波多野の領地である相模国松田郷(大井町山田)の松田亭に生まれ育ち、松田冠者を名乗る。平治の乱で父義朝と共に戦い敗走、落人狩りに遭って負傷し、青墓宿で父義朝の手によってその生涯を終える。
坊門姫(義朝娘)
母の由良御前は、熱田神宮大宮司藤原季範の娘。
生年は『吾妻鏡』の記録によれば1145年。1155年説もあり、1155年なら頼朝の妹となる。他にも姉妹はいたと思われるが、伝えられるのは坊門姫のみ。義朝の家人の後藤実基によって匿われて京で育ち、一条能保に嫁ぐ。その孫の九条道家と、同じく孫の西園寺倫子との間に生まれたのが、のちの第4代鎌倉殿の源頼経。
源頼朝(義朝三男)
母は由良御前。生年は久安3年(1147年)旧4月8日(ユリウス暦では5月9日、グレゴリオ暦に直すと5月16日)
幼名は鬼武者。頼朝には(たぶん)3人の乳母がいた。保元3年(1158年)、数え12歳で宮中に仕える。平治の乱では父の義朝、義平、朝長と共に戦い敗走、一行とはぐれて平家方に捕われ、伊豆へ流罪。が、関東武士をまとめて鎌倉幕府初代となる。
源義門(義朝四男)
母は由良御前。生年は不明だが、早世したと伝わるので、元服ののち、平治の乱より前に命を落とした可能性がある。
源希義(義朝五男)
母は由良御前。生年は不明。仁平2年(1152年)説があるが、しかし、範頼より先に生まれていないと五男にはならないので、仁平元年(1151年)、久安6年(1150年)の可能性もありうる。土佐国介良荘に流されて育ち、土佐冠者と称される。以仁王の呼びかけに応えて挙兵を計画し、平家の討手に討たれた。
源範頼(義朝六男)
母は遠江国池田宿(静岡券磐田市池田)の遊女とされる。池田宿は天竜川の渡船場。
生年は久安6年(1150年)、しかし仁平2年(1152年)の可能性もある。遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)。
公家の藤原範季に養育され、「範頼」と名乗る。妻は安達盛長の娘。頼朝の代官として大軍を率いて戦い、平家討伐に活躍するが、謀反の疑いをかけられ伊豆修禅寺に幽閉、梶原景時に攻められて自刃。しかし、密かに吉見(現埼玉県比企郡吉見町)に逃れて隠れ住んだとされ、逃亡の際に石戸宿(いしとじゅく)(埼玉県北本市)に立ち寄り、持っていた杖を地面につきさしたところ、根付いて石戸蒲桜(いしとかばざくら)となったという伝承がある。石戸蒲桜はエドヒガンとヤマザクラの自然交配種。
全成(義朝七男)
母は常盤御前。幼名は今若。生年は仁平3年(1153年)。
平治の乱の時に数え8歳、出家して醍醐寺に入り、授戒して全成と名乗る。その荒くれぶりから、悪禅師と呼ばれた。以仁王の令旨が出されたことを知ると寺を抜け出して東国に下り、相模国高座郡渋谷荘に匿われ、治承4年旧10月1日、下総国鷺沼で頼朝と対面。
駿河国阿野荘(静岡県沼津市井出)に住んだため、地名の「阿野」を名乗る。北条政子の妹の阿波局と結婚し、源実朝の乳母夫(めのと)となる。が、頼朝の死後、頼家に謀反の疑いをかけられ、常陸国に配流、下野国で八田知家により誅殺。
源義円(義朝八男)
母は常盤御前。幼名は乙若。生年は久寿2年(1155年)。平治の乱の時には数え6歳、出家して園城寺に入る。治承5年、叔父の源行家の挙兵に参加し、墨俣川の戦いで平重衡に敗れて討死。
源義経(義朝九男)
母は常盤御前。幼名は牛若。生年は平治元年(1159年)。常盤御前とともに都で暮らし、11歳で鞍馬寺に預けられ、16歳で奥州平泉へと下る。兄頼朝の挙兵を知って黄瀬川八幡の本営で対面。平家討伐にめざましい活躍をするが、頼朝に無断で朝廷からの任官をうけたことにより、頼朝の怒りを買い、奥州に逃れ、衣川にて自刃。
なお、八田知家が、義朝の十男という説があるが、八田知家の生年は康治元年(1142年)で、頼朝よりもかなり年上。というか、太郎義平のひとつ下。たしかに義朝の息子である可能性もあるのかもしれないが、むしろ、その父の為義(ためよし)の息子と考えるほうが自然と思われる。為義十男の行家は永治元年(1141年)から康治2年(1143年)頃の生まれであるとするので、康治元年(1142年)生まれの知家は、為義十一男の可能性があるかもしれない。源十一郎知家。ああなるほど、なんとなくそうかもしれないような。となると、知家は頼朝の叔父にあたるということになる。 (秋月さやか)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?