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ブラック会社が私を変えてくれた

こんばんは、あきづきです。
学生の頃から、旅行会社に就職すると決めていた私。最初の勤めはH〇〇で、東京都心の、おじさんの聖地と言われる街からスタートしました。

ノルマから自由になりたくて2年と経たずに辞め、別の旅行会社をアルバイトで転々としたのち、正社員でやり直そう、と思って入社説明会に臨んだのは、当時池袋のサンシャインにあった会社でした。

30人ほどが集まった会場で、事業の説明をしてくれたのは、それぞれ、グループ会社を統括しているという2人のおじさん。
小太りでコワモテ&昔はイケメンだった風なその2人の、漫才の掛け合いのような会社説明に、集まった応募者はみんな多いに笑わされ、
2日間通しての説明会終了後には、高揚感とともに、スルスルと入社後の手続きについての説明を受けていました。

具体的な仕事の説明は、後から考えるとあまりされていないのが気にはなりました。
でも、会社で契約している国内外のホテルを案内する仕事という話があったし、契約しているハワイのコンドミニアムに社員旅行で毎年行けるといった
イケイケな世界への期待が高かったのと、
土日でなく平日休みになるというのも、新鮮でいいと思えました。
そして、説明会で見事に一本釣りされた私は旅行の仕事ができると信じて、
一週間後にはその会社で新たなスタートを切っていました。

何しろ、もう20年近く前の話です。
今では色んなところがアウトな会社でしたが、その頃はそんな風に入社説明がグレーでも人は採用できたのでした。

入社直後からちょっと戸惑ったのは、荒川区尾久にある会社の寮、というか社長の借りていたマンションに住まなくてはならなくなったこと。
私の実家のある埼玉から池袋は電車で一本なので、十分通える。
普通にそう言うと、普通の口調で、
「同期もみんな寮に入るし、月に4本くらい成約を取って一人前になったら、xx(先輩)みたいに好きなところに住めばいいよ」
と説明されました。

共同生活がいっときなのであれば、ここは足並みを揃えるべきかと思った私は承諾し、寮に入りました。

そこから、私のブラック会社生活の幕が開きました。

女子4人の部屋で寝起きし、都電荒川線に乗って朝は11時までに出社します。時には、社長のオデッセイに女子が4,5人乗り込み、一斉出社。
(後の会社の同僚には、まるで出稼ぎに来たフィリピーナじゃないか、と言われました)

朝礼があり、それが終わるとまず、デスクの引き出しからB4用紙にプリントされた見込み客のリストを取り出します。会社が、電話番号販売業者から購入したリストです。

そして、前日まで電話をかけ終わって線で消し込みがしてある、リストの続きに電話をかけるところから一日の仕事がスタートします。

具体的には、電話に相手が出たらまずマシンガンのごとく、

「ハイっ、私ですね!池袋サンシャインにあります、株式会社〇〇のー」
(ジャパネットの旧社長のようなハイテンションで)一言一句決まったセールストークを読み上げます。

それでびっくりしても電話を切れず聞いてしまう、人の良い若者を最初からターゲットにしているのです。第二段階で、話を聞いてくれた相手をサンシャインに呼び出します。

そこで、旅行の会員権を売る仕事なのでした。

旅行業ではなかったのに、説明会でまんまとそんな風に思わされてしまったのでした。

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給料はフルコミッションで、120万の会員権を1件売ったら、10万円のバックマージンが入ります。

月に4件も売れば一人暮らしをして好きなものが買える。
実際に、そういう暮らしをしてブランドものを見に付けている先輩もいたものの、
一人のお客も呼べない日が普通でした。
毎日、夜10時まで電話をかけ続けてようやく定時になり、リストを引き出しにしまい、ガラガラになった都電で寮へ戻る日々。
まっすぐ帰れず、社長とチームでそこから焼き肉やラーメン屋に行って帰宅が深夜になることもしばしばでした。

時には、終夜営業の歌舞伎町のドンキホーテに連れて行ってもらったりもしましたが、お金の余裕がない私は買うものがないので、入り口の隅でひたすら先輩たちの買い物が終わるのを待っていたりしました。

早く帰れても、共同生活なので、一人になれる場所は2段ベッドの自分の寝るスペースにしかありません。
いつも、寝る前に眼前の天井を見上げて、2年の間に、できるだけのことをしようと自分にいい聞かせていました。

なぜ2年かというと、入社直後に社長が、「どんな仕事でも2年はやってみなければその本質はわからない」と言ったことが印象に残っていたから。

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ほどなくして、寮が必須なのは、外部との関係を絶たせるためなのだとわかりました。
なぜなら、友人や彼氏と会って、会社の話をしようものなら、「そんな会社絶対やめた方がいいよ」とまず100%言われるからです。

なので、休みの日も、他人との接触を断つべくリーダーや部長が遊びに連れ出してくれ、会社に囲い込まれた私は、家族とも友人ともだんだん連絡を取らなくなっていきました。
(TVもほとんど見なかったので、まさに「空白の2年」でした)

たまに成約して入ったお給料は、寮の家賃や、社用のMac、社員旅行でハワイに行くための旅費などに消えていきました。

成約すると花のマグネットが貼られるボードの、私の名前の欄は大抵、月末でも空白のままでした。

「実際、使えないものは売っていないので騙してはいない」そう言い聞かせていましたが、不当に高額なものを売ることへの抵抗はずっと消えず、契約まで持っていくエネルギーは私の中にはありませんでした。

いっぽう、一緒に採用された同期は私より社会経験が少なかったこともあり、会社の商法を疑うこともなく、素直にリーダーの教えを実践して成長していきました。

実は後から知ったのは、イケメンおじさん部長の方は私の採用を渋ったのだとか。
理由は、「自分がありすぎる」 から。
この会社の社風に染めるのは難しいと最初から思っていたそうです。

彼の予測通り、私の成績は全くふるわないまま、いつしか成約しない状態が当たり前のようになり、無機質にリストに電話をかけるだけの日々が流れていきました。

在籍2年目の成約は1年で4件。年収は40万円。

H〇〇時代に貯めた貯金はすべて生活費に消え、親にも、当時まだ20代だった女性リーダーにもお金を借り、それすら情けないと思わず、いろんな感覚が麻痺していきました。

唯一 救いだったのは、外界と接触できない分、先輩も同僚も仲間思いで、お互いに優しかったことです。

電話をかけていれば、時には相手から暴言を吐かれたりすることもあります。それでも、彼らはくさったり相手に言い返したりはせず、常に大人の対応をしていました。

食事の場でも教育をされました。
焼き肉を食べに行くと、辛いホルモンやキムチで顔をしかめるたびに、「私、辛いものダメなんですぅ、っていうのが可愛いと思うな」とか、
「箸の持ち方は絶対に直せ、直せないなら食べるな」と言われていました。
当時、やたら玄関マット的なものにつまずいたりしていたのですが、そういう部分も含め、「ドジでかわいいなんて誰も思ってくれないぞ」とチクチク言われました。
背が高くやせていた私を見て人が思うのは可愛い、ではなくかっこいい、なのだから、そちらを生かせということなのでした。

私が入社して2年目、先輩たちは、禁止されていた社内恋愛がばれて2人まとめて追放されたり、後から入ってくる後輩たちに次々に成績を抜かれて居場所がなくなったりして、加速度的にいなくなっていきました。
厳しく敷いた社内統制は、うまく機能しなくなっていました。

最後に、私の同期だった19歳の女の子までも、上司との不倫という禁断の掟破りをして去っていき、4人で暮らしていた女子寮は最後は私一人になりました。

人が減っていくなかでは私は余計に辞めたいといえなくなり、なんとか、きちんと結果を出して、自分に自信をつけて、自らの意思で次の選択肢を切り開いてから卒業したいと思って、毎日青白い顔をしてもがき続けました。

それでもある日、こっそり買っていた就職雑誌「とらばーゆ」で旅行会社の法人渡航業務の仕事を見つけた私は、朝、始業前にその会社の支店の面接にいきました。

奇しくもそこは、かつて、私が深夜までお客さんに訪問デモをして、数少ない成約を勝ち取った街でした。

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明日から、その新しい会社に出社という日、
私はまだ辞めるといえないまま、リーダーに誘われ、二人でサンシャインでボウリングをしていました。

夕方になり、フードコートでコーラを飲みながら、ようやく退職したいことを伝えると、すぐに社長に連絡がいき、

もう仲間ではないから、明日には寮を出ていくようにと言われました。

会社用に買ったAirmacは一旦没収され、社員旅行で撮った写真含め、会社に関わるデータが全て削除されて戻ってきました。

リーダーは一言も、
貸したお金の返済のことは言いませんでした。

そうして、私はその会社を、2年と3日で退職したのでした。

数年の時が流れ、、、
私はお金を返さない不義理がどうしても気になり勇気を出してサンシャインを尋ねましたが、在籍していた会社の名前は、見当たらなくなっていました。

その後、リーダーや社長の名前をフェイスブックで探したりしましたが、彼らを見つけることはできませんでした。

今、あの会社についてどう思うか聞かれたら、とんでもないブラックだったよ、と笑っていえます。

でも、その時に脳裏にあるのは、
あの会社にいて、
お箸が正しく使えるようになったこと、
辛いものが食べられるようになったこと、
甘えて人に媚びて生きようとしていた自分を
卒業できたこと。


そして、
少ない荷物をまとめ埼玉へ帰る道すがら、
赤帽さんの車の助手席で見た、

目の前いっぱいに広がった夕陽の眩しさです。

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