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【自己紹介|♯1】 横山暁之

こんにちは!
今回は、僕のことをより詳しく知ってもらいたいと思ったので、
横山暁之という人間がどういう経験を経て今に至るのかを、何回かに分けて書いてみようと思います。

今回は、高校卒業までを書きました。

たくさんのエピソードを含めて書いたので、ぜひ最後までお付き合いください🙇‍♂️


プロフィール

生年月日                 : 1997年3月26日生まれ 
出身地      : 東京都町田市出身
血液型      : A型
利き足      : 右足
好きな食べ物   : お寿司
好きな飲み物   : ホワイトモカ(スタバ)
尊敬する人    : 谷澤達也
目標とする選手  : 谷澤達也
好きな芸能人   : 西野七瀬
性格       : 気にしい

幼稚園生時代

家族構成は、父・母・姉・姉・僕・妹。
4人兄弟だが、自分以外が女の子という環境で育った。
仲の良かった家も3姉妹だったので、よくディズニーへ家族ぐるみで旅行へ行くときも、男が圧倒的少数派だった。
そのせいか、喧嘩をした記憶はあまりないが、一緒に遊んだ記憶もあまりない。
最初は幼稚園に行くのも嫌で、迎えにきたバスに乗るのを嫌がって母に泣いて抱きついていたらしい。甘えん坊だった。
幼稚園生の時に父からサッカーを習わないかと勧められたが、「幼稚園生を習ってるもん!」とか言って最初は断ったらしい。
その後、ヴェルディのスクールに通い出したが、コーチの話なんて聞かずに、当時の砂のようなグランドを掘ってよく怒られていた。
普段は両親に車で1時間ほどかけて送ってもらっていたが、
浜松に住んでいたジュビロ磐田ファンのおばあちゃんがたまたま遊びに来ていた時に、
ヴェルディのスクールに連れて行ってもらった。
普段は砂を掘ってばっかだった僕が、
おばあちゃんが観ている中、ミニゲームでたまたま点を取ったのが人生初のゴールだった。
それがすごく嬉しくて、サッカーが好きになった瞬間だったと思う。
それから一所懸命頑張って、ミニゲームでいつも点を取るようになった。
ミニゲームで点を取ると、帰り道に父がコンビニでから揚げ棒を買ってくれた。
点を決められないと買ってもらえなくて、それが悔しくて泣いてる時もあった。
その後、幼稚園に体育を教えにきていた先生の事を、普通は「先生!」って呼ぶのに、そのコーチのチームに所属している幼稚園の友達が「コーチ!」と呼ぶのが羨ましくて、山崎FC(現ARTE山崎)に所属するようになる。

3家族でディズニーシーへ!
男は僕だけ😭

小学生時代

小学生の頃は体が圧倒的に小さかった。
今思い返すと、お菓子ばかり食べて、ちゃんとご飯を食べていなかった。
ただ、当時体が小さいおかげで、相手に触れられないようにボールを扱う技術を高め、相手の逆をとったり駆け引きすることを覚えた。
当時から父が足元の技術は小さい頃にしか上手くならない!と口酸っぱく言ってくれていたので、コーンを置いてドリブル練習をよくしていた。
家の中でもよくボールを蹴っていて、紫色のゴムボールを家具に当たらないようにドリブルしていた。
小さいゴールを買ってもらって家に置いてあったが、そこに向かってシュートを打った時に、両親の結婚祝いの大事な壁掛けの時計にぶつけて落として大破損させ、父を大激怒させてしまった。
その時、母がお風呂に入っていたので、なぜかそこは安全地帯だと咄嗟に判断して逃げ込んだ記憶がある。
ただ、父とは仲が良く、週末の試合後には一緒にお風呂に入って、試合のフィードバックをもらうのが楽しみだった。

当時、所属していたチームの練習をメインに、ヴェルディのスクール、クーバーコーチングのサッカースクールにも通って、サッカー三昧だった。
サッカーが大好きだった。
楽しくて楽しくて仕方なかった。

一年中、半袖半ズボンで過ごし、ずっとサッカーをしている典型的なサッカー少年だった。

※その他小学校の6年間はピアノも習った。
(1日30分の練習を親から課せられていた。)

そのおかげで、サッカーはみるみる上達した。
しかし、町田市のトレセンに入るのがやっとで、それ以上のトレセンに合格する事はなかった。
それでも、小学6年生の頃、ヴェルディのスクールでスペシャルコースに呼ばれた。
その時に恩師に出会い、そのコーチのおかげでヴェルディのジュニアユースに入団する事ができた。

ヴェルディのスクールの卒業時
トップの試合前に写真撮影
後にユースの時のコーチとなる菅さんと土肥さんと。

中学時代

中学時代は東京ヴェルディジュニアユースでサッカーに明け暮れた。
同期には、三竿健斗(サンタ・クララ)中野雅臣(レイラック滋賀FC)安在達弥(アスルクラロ沼津)小田島怜(沖縄SV)田代蓮太(はやぶさイレブン)青戸翔(テゲバジャーロ宮崎)などがいた。
サッカーがみんな本当にうまくて、サッカーに対して本気で取り組む集団の中で、練習中から文句言われるし、僕がボール持ったらそこだいけー!みたいな時期もあったし、結構辛い時期もあった。
ただサッカーするのが大好きで、遊びの延長だったものが、少しずつ変わっていった。
サッカーを上手くなる事を常に考えさせられるようになって、遊びから競技になっていったのかもしれない。

小学生まで甘やかされて育った僕は、敬語も使う事ができず、コーチに友達のように話しかける僕を、ジュニア上がりのみんながびっくりしていたのを覚えている。

携帯を親から買ってもらって、チームの連絡事項も自分で、練習や試合に行くのも電車を使って自分で。
練習後もクラブハウスで夕食を食べて、夜遅くに電車で帰る。
全く新しい環境だった。

中学1年生の頃は、僕をジュニアユースに入れてくれたコーチが見てくれていたのもあって、楽しくサッカーができていた。
トレーニングも教えてもらう事も独創的で、アイディアが面白く、すごく技術的だった。
ブラジル遠征に行って、身体的に劣っていても、技術やアイディアで他と違いを見せる僕に、現地の人が声をかけてくれて嬉しかったのを覚えている。
ただ、中学2年生になるとほとんど試合に出る事ができなくなった。
僕を気にかけてくれたコーチから新しいコーチへ変わった中、自分で状況を変える力はなかった。
チームのトレーニングについて行くのが精一杯だった。
中学2年の時には東京国際ユースで優勝したという思い出があるが、試合に出た記憶はあまりない。
試合にはほとんど関わらないまま、
気づいたら中学3年の最後の大会も敗退していた。

そんな状況の中、ユースに上がれるかどうかの進路面談の時期がやってきた。
身体が小さかったが、サッカー小僧で技術が売りだった僕は、ヴェルディらしさだけはあった。
試合には出ていなかったが、伸びるんじゃないかという期待も多少はあったと思う。
チームメイトはユースに上がって欲しいとクラブからお願いされる中、「試合に出れない可能性が高いけど上がってもいいよ。どうする?」くらいの感覚で話をされた気がする。
高校サッカーに興味がなかった僕は、ユースに上がると即答した。

高校時代

中学時代まではチームもトレーニングも学年別だったが、高校から3学年が一緒になった。
全体で練習する時もあったが、Aチーム(2.3年生中心)Bチーム(1年生中心)に分けられ、1年生ながらAチームに行く選手もいた。
中学高校時代のチームメイトはすごい人たちだらけで、いつも圧倒されていた。
あのハイレベルの中でのトレーニングは本当にいい経験になっていると思う。

上下関係は厳しく、3年生がロッカールームにいる時は、グランド隅で時間を潰して、いなくなったのを確認してロッカールームへ戻ったりしていた。
一発芸をやれ!と言われる恐怖に怯えながら過ごしていた。
1年生で用具当番を曜日ごとで分担した。
僕は安在達弥(現アスククラロ沼津)とコンビを組んだ。
僕たちはパーフェクトだった。
絶対にミスをしない。
ビブスの干し忘れ、マーカーやボールのしまい忘れ、ロッカールームの掃除など、忘れた場合坊主にしなきゃいけなかったので、絶対に忘れたくなかった。

高校一年生の時に、スウェーデンで開催された「Gothia Cup(ゴシアカップ) 2012」に参加した。
2011年に、Jリーグアウォーズ 最優秀育成クラブ賞を受賞したおかけで、Jリーグアカデミー代表チームとして参加した。

ゴシアカップ 横山暁之33番

もちろん、試合に関わったのはほんの少し。
僕は観光だとチームメイトに馬鹿にされた(多分)。
ただ、コーチや監督は僕を見捨てていたわけではなかった。
頑張って、試合で少しずつ成果を出せば、それを見てくれた。
日本へ帰国して、夏に開催された金沢ユースチャレンジカップ(全国から集まったチームで行う大会。現在は和倉ユース大会を頂点とした4つのカテゴリーに分けられている)では、多少の成果を出す事ができた。
そのおかげもあって、夏過ぎから、プレミアリーグの登録メンバーに入る事ができた。
(人数の制限があるのか、全員が登録されるわけではない)
僕が高校1年生の頃のヴェルディユースは、プレミアリーグで無敗優勝し、天皇杯予選でも大学生を次々と倒し、準決勝ではJFLの横河武蔵野FCに惜しくもPKで負けたが、圧倒的な強さだった。
当時はなぜかそれが普通だと思っていて、プレミアリーグEastとwestの王者が対戦するチャンピオンシップで負けた時は、負ける事なんてないと思っていたので衝撃だった。(埼玉スタジアムの上の方で僕はビデオを撮りながら試合を見ていた。)

2012 プレミアリーグEast 東京ヴェルディユース登録メンバー
参照: http://www.jfa.or.jp/match/league/2012/takamadonomiya18/premier/team/east04.html

高校2年生の時も、たまーにベンチに入るくらいで出場はなかった。
そんなこんなで、よくやくプレミアリーグEastの初出場ができたのは、高校3年生になった開幕戦だった。

記念すべき初出場の公式記録。

参照: https://www.jfa.jp/match/prince_takamado_trophy_u18_2014/2014/premier/east/schedule_result/pdf/m105.pdf
第3節では、現チームメイトの鈴木翔太と対戦。

参照: https://www.jfa.jp/match/prince_takamado_trophy_u18_2014/2014/premier/east/schedule_result/pdf/m303.pdf

高校3年生になっても、中心メンバーにはなれず、スタメンは上記の2試合のみ、ゴール数は0。
(かろうじて、夏のクラブユースでは、1得点を上げることができた。)
チームは8連敗し、残り3節を残してプリンスリーグへの降格が決まった。

毎日のトレーニングを全力でやっているつもりだったが、
高校時代の僕は、まだまだ自分を客観的に見ることができていなかった。
サッカー選手になりたい!
口だけだったと思う。
そのために、何をするべきなのか。
全く考えられていなかったし、自分の立場や状況さえも、ちゃんと把握することもできていなかった。
試合に出られないのも当然だった。

そんな状態でまともに次の進路を考えられるはずもなく、当時の監督やコーチにはだいぶ迷惑をかけたと思う。
何も考えてない僕は、どこの大学に行きたいか聞かれた時に、とりあえず有名な大学を言っていたと思う。
全国大会での実績もなければ、実力もない僕に、関東の名のある大学に行く権利はなかった。
ましてや、なぜそこの大学へ行きたいのか、ちゃんとした理由も答えられなかった。
その後、監督やコーチの進路相談のおかげで少しずつ自分で考える力を身につけて、将来自分は何がしたいのか考え、そのために必要な事を学んだり努力できる環境を探し始めた。
その時、監督に北陸大学を勧めてもらった。
ヴェルディユースから北陸大学へ行った先輩が過去に1人いたのだ。
プロサッカー選手を目指しつつ、無理だった時は指導者になりたい。
まず、大学へ行った後プロサッカー選手になるためには、大学で実力をつけながら、名前を売っていくべきだと考えた。
そのためには全国大会に出る必要があった。
関東の大学へ行って試合に出られないよりも、地方の大学へ行った方が実力的に試合に出られる可能性が高いし、サッカーに力を入れている大学も少ないので、全国大会が近かった。
またデンソーの選抜チームに入る可能性も地方の方が高かった。
多くのタレントがいる関東や関西より、地方で結果を出しそこで選抜に入る方が、可能性が高い。
そうやって、全国大会での活躍やデンソーの選抜チームに入る事で名前を売っていく事が大事だと思って北陸大学に進学を決めた。
そのほかにも、北陸大学では、スポーツコースを選択できる。
スポーツコースでは、中学高校の保健体育の教員免許のほか、クーバーコーチングサッカースクールの指導者ライセンス(専門の学校に通うか北陸大学で履修するかの2択)、JFA公認C級ライセンス、健康実践指導者などの資格を取得できる。
授業では、スポーツ栄養学、スポーツ心理学、コーチング学などを学ぶことができる。
サッカー部の環境も最高だった。
大学のキャンパス内にクラブハウスがあり、人工芝のコートが2面ある。
トレーニングジムもある。
サッカー部のトップチーム専用の寮もある。
こうして北陸大学へ進学する事を決めた。

高校最後の試合の後、集合写真

今回はここまでになります。
最後まで読んでいただきありがとうございます!

次回は、大学時代を綴ります!

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