「ぼくと彼の夏休み(3)」
夕飯が終わったら、自分の部屋に戻る。おじいちゃんの屋敷に滞在する際は、毎年決まった客室があてがわれる。
この屋敷には客室が10室もあり、おじいちゃんが1人で暮らすにはやはり広い。広すぎる。
昔は、おじいちゃんの友人や海外の取引相手がしょっちゅう遊びに来ていたらしい。しかし、現役を退いてからはそういった機会もすっかり減ってしまった。
大変なのは、お手伝いのトウコさんだ。食事を作る以外に、掃除まで任されている。しかし、よく使う部屋以外はそこまで徹底した掃除を求められないそうだ。しかも、おじいちゃんは自分でも掃除をする。何なら、家の改修や徹底した手入れなども全部自分でやる。ぼくが彼を信頼しているのは、そういう人だからだ。
浴室は、各階に2箇所ある。1階は、おじいちゃんの部屋のすぐ隣におじいちゃん専用のが。お手伝いのトウコさんの部屋の隣に、トウコさん専用のが。2階は、ぼくの部屋の隣に客室専用のがあって、ぼくは毎年それを使っている。
洋館だけに、バスタブは猫脚で、それに入るのは何だか気恥ずかしい。ぼくはシャワーだけ浴びて終わらせることの方が多い。そもそもぼくは、カラスの行水である。
滞在3日目に、ぼくはめずらしくバスタブに浸かった。浴室の窓から見える満月が、ひどくきれいだったからだ。読みかけの本を持ち込んで、日向水に浸かる。
不意に、浴室の扉をノックする音がした。ぼくは焦って声を上げた。
「入ってます!誰ですか?!」
その返事に、耳を疑った。
「祐人です、シャワーかりていい?」
どう返事しようか迷っている間にも、祐人は勝手に入って来て服を脱ぎ始める。
祐人ははばかることなく、バスタブの横に設置されているシャワーを浴び始めた。ぼくは目のやり場に困りながらも、自分とは全く違う彼の逞しい体つきを観察してしまった。日によく焼けた褐色の肌は、暗くしていた浴室の中でも一際美しかった。適度に鍛えられた筋肉が、濃い陰影を作っている。
「……ジロさんの家に浴室ないの?」
祐人の体に見とれながらも、彼に訊いた。
「あれ?知らなかった?俺はこの屋敷に住んでるんだよ。」
「えっ?」
意外な返答にびっくりした。
「じいちゃんのロッジは老朽化が激しくてさ。直しながら暮らしてるけど、追いつかなくて。雨漏りはすごいし……だから、俺は最初からこっちで暮らしてるんだ。」
「そうだったんだ……」
ということは、ぼくの知らない時間帯に浴室を使ってたんだな……。
祐人は体を洗い終わると、バスタブに入って来た。ぼくは慌てて、読んでいた本を棚に置いた。
「なに読んでるの?」
祐人は、興味なさそうに訊いてきた。
「中原中也の詩集だよ。」
「ふーん……」
それっきり、会話は続かない。
「祐人くんは、なんで庭師になったの?」
とっさに出た質問がそれだった。
「くんなんて付けないでいいよ、ユージンって呼んで。」
「じゃあ、ユージン……庭がすきなの?」
誰かを呼び捨てることに慣れていないので、妙なイントネーションになってしまった。
「うーん、成り行きかなあ?じいちゃんを1人にしたくなかったんだよね。」
ぼくは、意外な感じがした。そんな年齢で働くことを決めたのだから、相当な思い入れがあると思っていた。
「まあ、自分には合ってるよ。勉強とか、苦手だったから……」
バスタブの中で、彼の足がぼくの足に触れている。鳩尾の辺りが、何だか疼くような感じがする。
「フミアキは、じいちゃんがすき?」
祐人は、真っ直ぐぼくを見据えている。
「うん、すきだよ。家族の中で、いちばんウマが合う。ぼくが本をすきなのは、おじいちゃんの遺伝だと思ってるよ。」
「俺も!」
祐人は屈託のない笑顔でそう言った。
不思議とその後は、会話が弾んだ。祐人が7歳の時、彼の両親は交通事故に遭って亡くなったらしい。ジロさんが住み込みだったから引き取ってくれることにはなっていたけど、こんな山の中では淋しいだろうと学校の寄宿舎に入れられてしまった。しかし、そこでの生活は祐人に合わなかったそうだ。何とか我慢して小学校は卒業して、中学もそのまま行っていたのだけど、そのうちいじめに遭うようになり、逃げるようにしてここへ飛び込んだんだそうだ。もちろん、ジロさんはそんな経緯などまったく知らない。
彼がそれらを話し終える頃には、ぼくもすっかり打ち解けていた。それはきっと、満月のせいもあったに違いない。直前に読んでいた中原中也の詩が、ぼくの中でくり返し響いていた。
− 月夜の晩に、拾つたボタンは 指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは どうしてそれが、捨てられようか?