優雅な挨拶(6)

 夕方の鐘が鳴る。図書館にひと気がなくなると、図書カードに押す判子一式をカウンターの抽斗にしまう。読書席で出しっぱなしになっている椅子は机の下に収める。窓を閉め、鍵を片っ端からかけていく。電灯のスイッチを切る。忘れものや落としもの、器物の破損など、何か変わったことがあれば事務室の上司や同僚に報告をして、帰路に就く。
 まっすぐ帰ることもあれば、商店街で買いものをすることもある。八百屋で少しばかり野菜を買い足したり、肉屋では揚げたてのコロッケを買ったりもする。本屋は週末にしか寄らないけど、古本屋は平日にも覗くことが多い。というのも、買い逃していた本やもう新刊ではめったに手に入らない本は平日に入荷していることが多いからだ。
 今日も、学生の頃にほしくて堪らなかった堀口大學の訳詩集「月下の一群」を見つけてしまった。その装丁の美しさに、感心することしきり。詩集はこうでなくっちゃ。
 働きはじめていちばんうれしかったのは、自分のすきな本が心おきなく買えることだった。親からもらうお小遣いで買える本なんてたかが知れている。その頃には貸本屋を利用することも多かったが、今ではよっぽどのことがない限り立ち寄ることはない。
 お気に入りの本を自分の本棚に一冊、また一冊と収める度、えも言われぬ幸福感がぼくを満たす。これはたぶん、この先も一生変わらない。
 自転車を走らせながら、はやる気持ち。今夜は活字の海に溺れながら床に着くのだ。
 そんな空想をしているうち、下宿に到着した。玄関の洋燈が今夜も点っている。モダンな字体で「銀星荘」と書かれた看板が、宵闇に浮かび上がっている。
 自転車を納屋に停めると、いそいそと買い物袋を抱えて自分の部屋に上がる。ここは我が王国。ひとりきりの楼上だ。
 買って帰ったコロッケをお茶で流し込み、寝床を準備する。買ったばかりの詩集を持って、布団の間にはまり込む。うやうやしく、詩集の頁をめくる。活字のインクや紙の匂い、古書独特の匂いにうっとりする。
 今夜は長い夜になりそうだと体勢を整えた瞬間、ふいにノックの音がした。間が悪いとはこのことだ。居留守を決め込もうと息を潜めた。しかし、ノックは止まない。
「草介、居るんだろう?」
 びっくりした。隣町に住む詩作仲間、山崎幸助の声だ。ぼくは、すぐに応答した。
「はーいはい!居ますよ」
 部屋の扉を開けたら、そこに幸助がほろ酔いで立っていた。片手に日本酒の一升瓶を抱えている。
「おー同志よ!一緒に呑もうじゃあないか。」
 大袈裟に両腕を広げながら部屋に入って来た。幸助の挙動はいつも、芝居がかっている。
「こんな宵の早くから、すっかり出来上がっているじゃないか……」
 ぼくがそう言うと、幸助はぼくを一暼するなり手にしている詩集に気がついた。
「やあやあこれは、堀口大學の訳詩集ではないか!俺も持ってるぞ」
 ご機嫌な幸助がさらにご機嫌になる。
「ヴェルレーヌが特に良い」
 そう言うと、幸助は詩の一節を唱えはじめた。

 たった一人の女の為に
 わたしの魂はさびしい。

 今ではようやく忘れはしたが
 わたしの心も魂も

 ようやくかの女から離れて来たが
 まだわたしはあきらめられぬ。

 朗読が終わると、ふいに幸助が泣きはじめた。ぼくはどうしていいか判らなくて、どぎまぎしてしまった。彼は泣き上戸なのか?
 しばらくなだめすかしていたら、涙の理由を向こうから話し始めた。どうやらある女に恋をしたらしい。しかし、相手はお金持ちの令嬢。一般庶民である幸助などお呼びではない。しかも、幸助はしがない詩人で書店員。本を売りながら日銭を稼いでいる男など、眼中にもないだろう。
 ぼくは泣き崩れる幸助を見ながら、何もかも投げ出して恋が出来る人をうらやましいと思ったが、同時に自分には到底無理だとも思ってしまった。そんなものに振り回されている暇があるなら、一本でも多く詩をしたためる。
 励ますつもりで、幸助の作った同人誌がどんなに素晴らしかったかを話した。ヴェルレーヌのように、自分の恋を詩に書けばいい。そんなことを話していたら、幸助は渋い顔をして言った。
「恋をしない草介には解らないさ!」
 ぼくはぐうの音も出なかった。
 その後も幸助は自分の恋についてあれやこれやと語り続け、日付けが変わる頃にようやく帰って行った。

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