「秋思」河田誠一
山の色が紫がかって紺碧の空と区切り、秋の模様を彩ると、秋草の上に白い風が流れて地上の万物を浸し、海草のやうになびく杜の灌木材のほとりの小堀などには、もう小魚たちが冷い音をたてながら、水面の昼の月を喰べてゐるに違ひない。その頃私の心は澄み、かじかんだ憂欝さへわくのに、一しんに頭上を白い雲が走り、ほろ苦い陶酔のさなかに、私は蛙のやうにぽつねんと空を見あげかすかなため息をさへつく。
私は、たつた二とせの短い秋のめぐりに、コスモスを愛し、月夜の菜園にしのび入つて名しらぬ虫けらをいつくしみ、馬追ひのゐる白い小径を散歩することを覚えた。
「わたくしは生きて居たのだ」−としみじみそう考へる黄昏の毎日の散歩。遠い日のことの様に覚えてゐる−ある晴れた春浅い渚に透明な海月が数しれず打あげられてゐたが、私はその一つ一つを握りつぶしながら渚をたつて行つたことを。私はそのとき海月のあまりに透明なことを悲しんだ。又それでいいのだとも考へた。
*
静かな静かな生活−それを私は現実に享楽しつつも、或種の寂寥に似たものをすら感じてゐるのはどうした事だらう。しみじみした黙思に耽るのも決して若すぎる私のみではあるまい。丁度朝露がしつとり置くのは草のみでないやうに。
祭が来る私は蚕のやうにうづくまつて、じつとそれを待つてゐる。私はそれが来たとき黙々として人中に押されてゆく私を想像する。私は人が騒げば騒ぐほど黙つて悲しそうに歩んで行く。そして祭のあとの寂寥をもちあつかふやうなことはなく、それをじつと抱きしめるのが好きな私を見出す。
そんな日の晴れた草の上にぬるい日射しが拡がり、こうこうと鳴る秋風に吹かれる青空のやうな冷たさの草いきれ−あああ、「秋は人の世のまことなりと、かつて吾が師は教へぬ。吾いまは知る。秋はひとの世のまことなりと。」秋草をわたるかぜは私のおもひを遠いところに送り、またはるばる戻つて来る。
祭、それを私はじつと見つめるのが好きだ。しつとりと露の置く澄み切つた空のもとの草の上で、今宵もまたあのあの灯が一つともる山かげを、月光にぬれながら白い葬列がぬつてゆくかもしれない。さんざめき。お宮の燈に、雑踏が見えるやうだ。けれども私はそこへ彷徨い出るよりもこの窓のもとで、其の宵は小さな妹のかへりを待たう。
*
秋の草に蜻蛉がとぶ。青いくるくるした目のとんぼが、ついついとまる枯草。とんぼよ。とんぼよ。軽い翅のとんぼよ。
吹かれてゆく。吹かれてゆく。とんぼのやうに。吹かれてゆく私。
風、風、風、秋のさびしい訪問者。かぜよ。
白い小さい月の船の泛く空の深さに、情操の、凧を飛ばさう。
ろんろんと脳裏に刻むリズム。そして団々と流れるまつしろの雲。
ああそれは、
あ之かな澄心を透かして流れる蒼空の潮流。
日射は淡く山頂にまぐねしうむを焚き、
コケツトの少女は一心にうたふ。
ああ、秋のさびしい訪問者は、
しろがねの笛を吹きすまし、悲しい、黙想をころがし花々のうれひをとばし、季節の痛ましい、配列をよぎる。
*
丘に子供達が草笛を吹いた。澄んだ少年の瞳に憧憬の色を漂はせて白いちぎれ雲が流れた日である。ふけた秋の空のもとに沈みはてた私の心は、あの谷向ふをゆく黒い汽車の置きわすれたけむりのやうにはかなかつた。
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私は私の遠く、淡く、寒い太陽を感じる。
備考)河田誠一が18歳の折、香川県立三豊中学校の校友会誌「巨鼇」第24号(昭和4年3月発行)に掲載されたエッセイ。