「ぼくと彼の夏休み(1)」

 真っ赤なスポーツカーが、山道を滑っていく。その光沢を帯びた色は、この場所にひどく不釣り合いだ。木漏れ日が車窓に落ちるたび、それを想像しては目をしばたかせている。
「車の中でくらい、読書をやめたら?」
 母親がぼくを運転席からたしなめる。こういう時ばかり、母親面しないでほしい。ぼくは無言で応える。
「………」
「どうせ、おじいちゃんのところでも本しか読んでないんでしょ?」
夏のあいだ中、家を空ける母親に、ぼくの過ごし方をどうこう言われる筋合いはない。ファッションデザイナーである母親は、仕事を口実に今年もフランスでヴァカンスを過ごすのだから。本を読むしか能のないやっかい者のぼくは、毎年おじいちゃんの屋敷におはらい箱というわけ。おじいちゃんもまた筋金入りの読書家なので、書斎にある膨大な数の蔵書は、ぼくにとって最高なのだけど。

 車は、アイアンでできた唐草模様のゲートをくぐる。ここからがおじいちゃんの敷地なのだけど、母屋まではまだ数分かかる。広大な土地の真ん中に、欧州から輸入して建てられたヨーロッパ風の洋館。こんな山中のこんな場所にこんな建物があるなんて、ほとんどの人は知らない。美術品の輸入で財をなしたおじいちゃんが、贅の限りを尽くして作った自邸だ。
「おじいちゃんもつくづく物好きよね。こんな寂しいところで一人暮らしなんて。」
「でも、お手伝いさんや庭師が何人か住み込みで働いてるよ。」
 ぼくはやっと本を置いて、母親との会話に応じた。その途端、堰を切ったようにしゃべり出すのは、母親の鬱陶しいところ。
「それは雇っている従業員だから!家族じゃないじゃない。」
母親は短時間しか滞在しないから、おじいちゃんがその人たちと家族同然に暮らしていることなんて露ほども知らないのだ。ぼくはまた口を閉じた。
「自分の父親じゃなかったら、よっぽどの変わり者よね。」
ぼくは頭の中で「あなたもね、」と付け加えることを忘れなかった。偉い。

 そんなこんなしているうちに、車は母屋の玄関前に到着した。それを聞きつけて、立派な植物の彫刻が施された玄関扉からおじいちゃんが顔を出す。
「よく来たね。待ってたよ。」
 白髪頭のやわらかな笑顔を見るにつけ、ぼくは何だかほっとする。実は、自分の両親といる時よりもリラックスしているかもしれない。
「今年も文明(フミアキ)をよろしくお願いします。」
 母親はお嬢様として育てられたので、車の中ではあんな話しをしていたのに、一転、おじいちゃんと接する際はとても丁寧な言葉遣いになる。ぼくはぺこりとお辞儀をして、「よろしくお願いします。」とやはり丁寧に挨拶をする。おじいちゃんは、そんなぼくを見て悪戯っぽく微笑んでいる。
 母親は挨拶もそこそこに、また車にとび乗ると山を下りて行った。その足で国際空港に向かうのだ。嬉々として車を走らせている姿が目に浮かぶ。

 ぼくはと言えば、真っ先に書斎へ向かう。昨年の夏に借りて帰った何冊もの本を、本棚に戻す。そして、新たに追加された本を収めた本棚の一角を眺めて、早速気になった本を何冊か引っ張り出す。おじいちゃんはぼくのその様を、ほうほうと眺める。おじいちゃんの言うことには、ぼくがその時どんな本を選ぶかで、それまでの1年に読んできた本が何かだいたい見当がつくらしい。
 その後は決まってお茶を飲む。会わなかった1年の間に読んだ本や、両親との暮らしぶりを話す。この段取りはもう、何年も前から変わらない。儀式みたいなものかもしれない。ぼくの夏休みは、そうやって始まる。

 おじいちゃんは、ぼくのここでの過ごし方に干渉しない。ただ、夕飯だけはみんな揃って食べる。午後7時には、食堂に居なくてはならない。そこで、お手伝いさんや庭師の人たちも一緒に食べるのだ。ぼくに課せられるルールは、それだけ。
 ぼくは自分の部屋に荷物を運んで、夕飯までに身支度を整える。持って来た服はクローゼットの中に収め、やはり持って来た本を備え付けの本棚に並べる。すこし昼寝をしたら、じき夕飯の時間になる。
 玄関の扉が開いて、庭師のジロさんが来る。彼はもう30年来、この屋敷の庭を任されている。おじいちゃんと同い年だと聞いた。英国式庭園の造作を、日本で最初に手掛けた人だ。その技術を見込んで、おじいちゃんはジロさんを住み込みで雇っている。
「おーフミ。今年も来たか!」
ジロさんはぼくの頭をくしゃっと撫でてから食堂に入った。
 料理や掃除を一手に担うのは、お手伝いのトウコさん。彼女は50代だろうか?15年ほど前からここで働いているそうだ。おじいちゃん曰く、何より料理のセンスがいい。洋食ずきなおじいちゃんの舌を、掴んで放さないのだそうだ。前の料理人が辞めて新しい料理人を探していた時、たまたま入ったレストランで彼女の料理を食べたおじいちゃんは、彼女のお店にあしげく通ってついには口説き落としたらしい。その熱意たるや、トウコさんも感服させられたとか。
 10年ほど前にはまだ複数人のスタッフが働いていたそうだけど、ぼくが訪れるようになった頃にはもうすでに、2人だけになっていた。その代わり、妻に先立たれて一人暮らしをしていたおじいちゃんとは家族同然の付き合いをしているらしい。
 ところが、今年は違った。テーブルにはもう1人分の夕食が用意してあった。それに気がついた瞬間、食堂の扉をふいに入って来た少年がいた。よく日に焼けた肌に、よく鍛えられた体、しかし顔はぼくと同じ14歳くらいに見える。
「ああ、そうだ。忘れてた。フミは初めてだったな。」
おじいちゃんがそう言いながら、彼を紹介してくれる。
「彼は祐人(ユウジン)。お前と同じ14歳で、ジロさんの助手としてここの庭を整備してくれている。仲よくしてやってくれ。」
 おじいちゃんがそう言うと、彼は静かに頷いて笑った。白い歯がのぞいた瞬間、ぼくは何だか変な気持ちになった。
 祐人はジロさんの孫で、たまたま彼を訪ねてこの屋敷にやって来た。ところが、その庭にすっかり魅了されてしまったらしい。まさかの弟子入りを懇願され、ジロさんも拒否できなかったそうだ。働き始めてまだ半年にも満たないけど、彼はジロさんの指導で才能を発揮し始めているらしい。
 ぼくは正直、面食らった。自分と同世代の人間が、この屋敷に居るとは思いもしなかった。学校でも、クラスメイトの話題になかなかついていけないぼくは、彼と仲よくする自信がまるでない。
 その日の夕飯は、いつもより口数が少なかった。自分でも悪い癖だと自覚しているが、ぼくの人見知りがすっかり発動されてしまったのだ。ジロさんやトウコさんも不信に思ったかもしれない。そう考えると、その夜はなかなか寝つけなかった。

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