僕が母子ハウスを始めた理由 〜母子ハウスの今までとこれから〜 vol.07
2012年3月。収益物件としては、全国で初めてとなるシングルマザーシェアハウス「ぺアレンティングホーム高津」がオープンした。なぜ、建築家である僕が、母子シェアハウスを立ち上げるに至ったのか。その背景を何回かに分けて書いていこうと思う。
母子ハウスの今までと、これからを少しでも多くの人に知ってもらいたい。まだまだ、成長していかなくてはいけない事業だし、多くの人の助けと応援が必要である。
2015年、母子ハウスのポータルサイト「マザーポート」を立ち上げ。
2019年、母子ハウスの運営者が集う全国組織「NPO法人全国ひとり親居住支援機構」立ち上げ。
そして、これから僕らは何を目指していくのか。
7回目の記事になります。
これまでの記事はこちらより。
新たなペアレンティングホームと挫折
日本で初めてとなる収益物件としてのシングルマザーシェアハウス、ペアレンティングホーム高津がオープンして、徐々に軌道にのってきたかなというタイミングで、新たにペアレンティングホーム二子とペアレンティングホーム柿生というふたつのシングルマザーシェアハウスが立ち上がった。
実際に入居者のみなさんの声を聞いていると、課題はあるものの、シングルマザーシェアハウスのメリットをすごく感じていた。そのことで、これは広めていけるのではないか、広まっていくべきだと強く思うようになった。
新しくオープンした2つのシングルマザーシェアハウスも軌道にのれば、一気にその流れになるのではないかと思っていた。
しかし、現実はもちろんそんなに優しいものではない。
ペアレンティングホーム二子とペアレンティングホーム柿生は、結果的に短期で閉じることになった。
共有部が少し手狭だったなど、空間的な反省点もあったし、高津での経験から家賃も多少上げていたことなど、反省点はとても多い。しかし、こういう結果がでてしまった1番の要員は「集客」にあったと思う。
シングルマザーシェアハウスも収益物件として、少なくとも黒字を維持していかなくては持続することができない。どんなに意義があって、どんなに良いことであっても、ずっと赤字では、どうしたって続けることができないし、続けることができないということは、入居者のみなさんにも迷惑がかかってしまうことにもなる。
持続させていくには、まず安定的に入居者がいないといけないのだけれど、残念ながら、シングルマザーシェアハウスというもの自体の世間一般の認知度が圧倒的になかった。
必要としている母子家庭がいたとしても、その情報が届いていなければ、そのサービスは存在しないに等しい。まさに、その時のシングルマザーシェアハウスはそんな感じだった。
芽生え始めたシングルマザーシェアハウス
そんな挫折も味わっていた時期ではあるものの、全国では少しずつ、新しいシングルマザーシェアハウスが生まれていた。
大阪で株式会社アドミリの菊竹さんが立ち上げたのを皮切りに、新しいシングルマザーシェアハウスの噂を耳にするようになる。
その中の少なくない人たちが、報道で僕たちのことを知ってくれたり、僕が登壇した講演を聞いてくれていたり、実際にペアレンティングホーム高津の視察に来てくれていたりしていた。
少しずつではあるものの、影響が広がっていた。
しかし、せっかく立ち上がった新しいシングルマザーシェアハウスも、軒並み集客で困難を極めていた。
この流れをどうにかしないといけない。
そんな思いが強くなって、母子家庭向け不動産ポータルサイト「マザーポート」の誕生に繋がっていく。
ちなみに、株式会社アドミリの菊竹さんは、このほど、大阪で府営住宅の目的外使用する形で、府営住宅の空き家を活用したシングルマザーシェアハウスをオープンさせた。群馬県が県営住宅を活用した例はあるけれど、完全に民間が運営する形で実現したのは、今回が初めてだ。本当に素晴らしい取り組みである。このケースは民間と行政、それぞれができること、強みを生かして取り組むことができる居住支援のあり方であり、今後、全国に波及させていきたい。