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才能と努力と運ーエッセイ

 才能という怪物は、実際に存在する。個人的には好む言葉ではない。でも、事実、確実に存在する。べつに人が使っている事に対して、怒りや憎悪を覚えるというわけでは、もちろんない。ただ、自分が使うときは、決まって弱い自分への言い訳のようで、使いたくないだけである。そう、ただの悪あがき。
 だが、あがかなくとも、明確に才能のある人を確認してしまうことはいくらでもある。成功者の彼らは努力もしているのだけれど、それ相応の才能を持っている。
 例えば、「大谷翔平になれ」と母に言われたら、「お前の遺伝子でなれるかよ」と愚痴を溢す、というだけである。背も低い僕はメジャーでは、活躍はできない。
 だが、勉強をしなさいと言われたら、どうだろうか。少しは「頑張ってみようかな」と思わずには、いられない。生まれや性別で差別されない、唯一の社会のレール。そのレールに自分が乗れるのなら、と思わずにはいられない。
 このメリトクラシー社会では、どうしたって、才能というのは、目の敵にされるか、言い訳に使われるか、そして、孤高への捧げ物のどれかだ。

 中学生のときのことだ。学年一位の女の子がいた。彼女は頭が良かった。期末テストは毎回一位だし、授業中に当てられようと明瞭に答える。僕みたいに眠い眼をパチクリさせて、オドオドしていることは、まずありえない。
 彼女の影のあだ名は才女だった。僕は「アルパカ」と独りのときは彼女をそう呼んでいたけれど、皆の前では彼女の名字に「さん」を付けて呼んでいた。そして皆が、そう呼んでいた。
 才女と噂されるようになったのは、様々な理由があるだろうが、これだろうと理由は多々ある。だが、明確に挙げるとするなら、静かな性格と確かな学力、それに、彼女の富んだ語彙が、彼女を才女と呼ばせることに、こと足りたということだろう。

 そんななか、彼女が僕の前の席になった。中学二年生のときだった。授業と授業の中休み、皆が馬鹿騒ぎをしているなか、彼女は今日の課題をしていた。彼女は才女ではあったが、天才ではなかった。皆には天才だと呼ばれていたが、彼女は人一倍努力しているだけだった。ノートは綺麗に取るし、予習、復習もする。
 しかも、暇な休み時間は、ただ、ひたむきに課題をする。彼女は、決して友達が居ないというわけではない。社会性もある彼女は、クラスの女子の5人ほど仲のいい友人がいた。彼女たちは話しているし、課題をしながら、のんびり、端で友人の話を聴いている。そのようにして、休み時間を過ごしていた。
 そのとき、気がついた。才能を持っている人も、努力しているのだと。ふと、そんな単純な真理にたどりついた。そりゃ、そうだ。どんなに美味しい実を付けようと、努力しなければ、根を張ることも、実を付けることもできやしない。それに、定住か、移住か。それすらわからない。残酷だけれど、努力は、この世で必須なのだ。

 だが、将又、残酷なことに才能というのはあるのだろう。実際、才能がある人間は幾らでもいる。自分で見るより、他人から教えてもらったほうが幾分、やりやすいのかもしれないが。それでも、僕の目にはキラキラと輝く才能がしっかり映る。

 中学生のとき、勉強がやけに不得意なやつがいた。勉強ができなくて、苦労していたようだった。彼は水産関係の学校へ行った後、料理人になるべく、修行をはじめた。風の噂に訊くと、今もやっているらしい。そして、彼が才能というものを考えるきっかけになった。そうして、僕の親父の言っていた事を思い出した。

「中学生のころ、勉強があまりにできなくて、大丈夫かなと思っていた奴がいたけど、あいつ今、ポルシェ乗り回してるからな。ふぐ料理店で儲けてるから。どこかで無能でも、どこかでは有能なんだろうな。人間ってのは」

 確かに中卒でヤンキーだった僕の友人も、彼女と仲良く同棲しながら、左官屋の仕事をしている。そのとおりだ。そう思った。この世はお金がないとやりずらい。お金で買える幸せというのは、実際に存在する。特に品から生まれる「生きやすさ」といったものは、明瞭だろう。

 だけれど、お金持ちだけでは生活は出来ない。コンビニの店員さん、スーパーのパートのおばちゃん、介護士、マクドナルドのおじさん。無論、学歴のレールから脱輪した僕の友人達だって、この社会にとっては、必要なのだ。皆が皆、支え合っている。
 お金持ちという存在は、ある種のサークルのようなものだ。だけれど、彼らも(もちろん、僕らも)もっと大きな生活圏を共有している。
 この世の大半はマックジョブだ。だが、マックジョブがなければこの世界は回らない。夜中にコンビニは開かないし、年老いた老人たちは生活に苛まれ、スーパーには売り物が並ばない。そして、壁すらその世界には建っていないだろう。
 名だたる者を追って、氷ばかり掴む僕らは、他人へのリスペクトを忘れてしまいがちだ。

 だれもが、才能を持っている。だが、アルバート・アインシュタインのような才能ではない。ジョン・フォン・ノイマンのような才でもない。

 教育環境と、生活環境、そして、生まれたときの素質で才能が決まるなら、才能といわれるそれは特性とも言える。僕がモネやダ・ヴィンチを好きなように。そんな特性をもって、働ける場所こそその人のいる場所であり、そこであまりに光り輝いている人が、天才と呼ばれるのだろう。

 例えば、友人には音痴な奴もいる。彼は歌手にはなれないだろう。だけれど、そいつは人がいい。人前でアガル事も無いし、普通に話せる。ときには、気まずさを捌くことができる。それは特性だろう。コミュニケーション能力の高さは圧倒的。彼の頭の回転は異常だ。

 自分を例にしてみると、僕は文字にして考えるのが得意だ。紙に書き出して、ああでもない。こうでもないというのが大好きなタイプ。まあ、得意稀な人である。しかも、ロジック系が強い。だが、理系かと言われると、そうでもないな。と思わずにはいられない。何故ならば、絶望的に数学の才が無いからだ。学生のとき、どうしてもできないものがあった。努力したが理解できない。それが事実だった。それから、文学へ傾倒したのは必然とも言える。数学が苦手なら、文系はどうだろうか。そんな単純なことを考えていたのだろう。それ以前に文学の面白さにハマったのだろうが。
 それに今思えば、理数関係で褒められることより、読書感想文や俳句、図工や美術関係で褒められることの方が多かった。賞はよく取っていたし、美術と図工の通知表は、小学生から高校まで、4か5だった。多分、そんな特性があったのだ。そのくせ、体育は1、2。良くて3である。4なんて取ったことはない。運動音痴、チビ、デブ。そして、眼鏡。もう、なんというか、いじめられる四つの要素を持っている人物である。
 体育のとき、幾ら練習しても、逆上がりまではできても、それ以上ができなかった。運動に関していえば、僕は才はなかった。これが僕の特性要素だった。

 つまり、才能は存在する。こんなにいわなくとも分かるはずだ。皆が皆、思っている。「才能は確実に存在するものだ」という真実にうっすら、どころか、明確に気がついている。

 では、運はどうだろう。これも事実、存在する。
 極端な例だが、例えば、第二次世界大戦中に赤紙を貰った人の中には才覚ある人物もいたはずだ。芸術を志した人も居たはずである。生まれた国、時代。そんな風に才能を射殺す、圧倒的な運は実際にある。

 成功者にとって、嫌いな言葉は「運」だろう。「君は運が良かった」と言われて、「そうだね、運が良かった」という成功者は非常に少ない。もちろん、努力もしているのは事実だ。でないと、成功なんて出来るわけがない。運が良かったと書いていて、それを確認しているのは、村上春樹さんぐらいだ。
 彼らの心情もよく分かる。簡単に言ってしまえば、遺伝と同じように捉えてしまいがちなことによる弊害だ。

「君は顔がいいから成功したんだ」

そんな風に言われているような気になってしまうのだろう。
 
 だが、ビジネスマンで成功するには運がいるらしい。これはある社長から聴いた話だ。

 その社長は水産関係の社長だった。フェラーリとポルシェに乗り、数百人の従業員を抱えていた。その人は父の友人で、同級生だった。その人と話すことになり、その人によれば、「10億までは努力でどうにかなる。が、それを努力で超えるのは手厳しい」と言っていた。
 
 つまり、十億以上の資産を持つには、運もいるということなのだろう。

 「成功するためには運もいるのですか」と訊いた小学生の僕に、「うん、そうだね」と希望すら見せない、あの顔。まるで木で作った能面のような、柔らかいのに、冷静な顔は、なんとも冷徹だなと子供ながらに思ったものだ。

 確かに、今からイーロン・マスクや孫正義になれと言われても、不可能だろうなと思うし、宮崎駿や押井守になれと言われても、不可能だろうなと考える冷静な自分がいる。起業と芸術は、ある意味、相似しているのかもしれない。

 起業して成功する人は何をさせようと、ある程度、成功しそうだ。責任を楽しめる人には打って付けの職業だなと犇犇、思う。
 
 つまり、成功するには、運も必要だということなのだろう。
 
 才能がない。運もない。努力もできない。そんな落伍者と呼ぶに相応しい人達はいっぱいいるだろうし、(僕もそのうちの一人だ)それが人なんだと思えば、ごく普通のことだとも思える。

 皆何かに不得意で、何かに得意なのだ。この三つは明確に存在することだ。運も、努力も、才能も、明確に成功する上では必要なことだろう。そもそも成功の定義は人で明確に異なる。僕で言えば好きなときに本を読んで、本屋に買いに行けたら、それは成功である。だが、資産が数億ないと成功とはいえないと謂う人だっているだろう。

 では、成功するには何が必要なのか。それは僕には分からない。そもそも、運が絡んでくる時点で明確な答えが出るわけもない。量子力学のように、確率上、観測できるといった具合のはずである。

 だけど、明確にいえるのは、片手は開けておくべきだということだ。
 運は転がってくるが、それを手中に収めなければならない。両手が塞いでいてしまっては、どうしようもないのだろう。何かを得るためには何かを棄てる必要がある。

 祖父がこう言っていた。
 「人間の生は、手持ち無沙汰には長すぎる。でも、何かを成すには短すぎる。まさに、帯に短し襷に長しだ」
 今頃になって、ようやく、理解できました。そう、地獄で言いたいものだなあ。 

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