まずは自己紹介からはじめてみる #2 インター編(前半戦)
おはようございますこんにちはこんばんは、もしくは、はじめまして!木村彰人です。
このnoteは自己紹介記事の第二弾です。
第一弾をまだご覧になっていない方は、よろしければ先に以下のnoteを読んでいただけると嬉しいです。
第一弾にも書いていますが、この自己紹介note(群)は、「起業家を増やして、日本に再び元気にしたい」という私個人のミッションを実現していくための第0歩として書いています。そもそもどちら様ですか?ということを説明するところから始めようという魂胆です。
同時に、このnote自体が読み物として面白かったり、誰かの学びや息抜きになったら嬉しいなとも思っています。
インターナショナルスクール入学(投下)
父の転勤でジュネーブに引っ越しました。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)です。ちなみにちなみに、この時の父の最終ボスは緒方貞子さんでした。教科書でお名前を拝見するような方です。ちょっと間違えたら戦犯なので、調べて引用いたします。
最近妻と『虎に翼』を見ています。そのテーマのひとつが女性の社会進出だと思うのですが、今の所2話に1話(今第8話😇)のペースで2人で泣いてます。妻は先行視聴者なので、概ね3周目なんですけどね!それはそうと、社会「進出」っていう言葉、相当パワーワードだと思いませんか?進出って...進出前はどこにいたっていう想定の言葉なの。まさか社会の端とか外とか言わんよな?っていう気持ちです。この辺の言葉に偏執的になっちゃうのは文系ですね(いずれ話しますが法学部です)
私、感化されやすいタチなので、本屋でこれ買って読み始めました。心躍ります。
さすがに入学しましょうか。トピックが出てくるたびに伝えたいことが止まらないせいで脱線しがちで長くなってしまうのが、どうやら私のnoteの特性のようです(2個目のくせに笑)
書いていて、母からジュネーブに行く前の日本の学校でのエピソードを思い出しました。当時、東山小学校(東京)から、浦島小学校(神奈川)に転校しました。その際に、たまたま東山のほうが授業が進んでいたとかで、浦島小学校に入ったとき、私は周りの同級生たちよりも勉強進んでたんですよね。ただ先にやってるだけのチートです。そんな有利はどこ吹く風、当時の私は簡単にいうと調子に乗っていたそうです。天狗👺のような。これは環境としてあかんと思った母は、当時父に提示されていたスイスへの転勤の話に賛同することになります。その意思決定には、子どもの私にとってポジティブな環境の変化になるであろうという期待が含まれていたそうです。
当時のその話を大人になってから聞いて、シンプルに、すごい英断だと思いました。スイスは流石に谷と言っていいが、私は絶対に獅子ではない!という風に心の中でツッコミいれました。笑
ジュネーブ上陸です。
ジェドーという噴水が象徴的で、是非機会があれば行ってみてほしいです。
両親は、私をスイスの現地校ではなく、インターナショナルスクールにいれてくれました。理由は、現地校だとフランス語(ジュネーブはフランス語圏なので)で、インターで英語を学ぶ方がこの先活きるだろうと配慮してくれました。今でも助かっているので、ありがとうございます。
あぁ、1740文字ほど書いてようやく入学しました。
ナニヲイッテルカワカラネイ
何が困るかって、まず、周りの誰をとっても何を言ってるか分からないということでした。英語なんて分からないので当然です。
ジュネーブには国連機関がいくつかあるというのもあり、私のように親の転勤で入学しているケースが多かったように思います。かなり多国籍でした。まず見た目が違う。だが言葉はみんな英語。文字通り異世界転生です。転生ではなく転移ですかね。
上記のような前提もあってか、インターの中に英語を学習する用のクラスがあり、私はまずそこに入りました。さすが子どもというべきか、英語はすぐに話せるようになりました。ただ、流石にあまりのストレスだったようで、その期間は夜中に夢遊病みたいに歩き回ってたらしいです(当人に記憶なし)。よく頑張ったとその頃の自分を褒めてあげたい。
英語習得後、普通のクラスに編入されます。担任はチャップリン先生でした。オーストラリア人の金髪で天パのイケメン先生です。
私はチャップリン先生に「レディーファースト」を叩き込まれました。そのおかげで、今でも妻と外を歩いていると自分が道路側を歩かないと生理的に落ち着かないぐらいには体に刻み込まれています。最高の先生でした。
母から聞いたのですが、チャップリン先生は私を「Center of the attention(注目の中心)」になりたがる子と表現していたそうです。要は目立ちたがり屋ですね。元来の性質だけでなく、英語が話せるようになって周りとコミュニケーションできるようになって楽しくてしょうがなかったんでしょうね。正直しんどくて、「僕の頑張りを認めてほしい!」という気持ちが強かったと振り返ってみると思います。異世界の中でもちゃんと生きているんだと声高に主張したい、そんな気持ちでした。
この頃に多様な人種と価値観の入り混じった環境の中で、他者へのリスペクトを正しく子どもに教える度量のある先生の元で過ごしたことは、私の価値観に大きく影響していると思います。
多様性は世界を構成する自然法則であり、出自の違いを理解し他者を尊重しながらも、自己のあり方、特に独自的価値について常に考え続けることが当たり前。そんな子どもに仕上がりました。今でも変わってません。日本の同質性を要求し、かつ「出る杭は打たれる」文化を大人が黙殺する(と私は評価している)義務教育の現場とは真逆というか、水に油というか。日本に帰国後はそのギャップにまた苦しむことになるのですが、それはちょっと先の話なのでまた後で書きます。
無邪気は無自覚の邪気
私、通称「第七王子」という異世界転生ものの漫画が大好きなのですが、その中にこのタイトルの表現があり、とても気に入っています。
気になる方、是非読んでください!ハマった方、大いにかたらいましょう!私これ15から20周はしているぐらい好きです。
「無自覚の邪気」は主人公のロイドに対する表現として登場します。ここでなんで急にそんな表現を出したかというと、私が欧米人だらけの中でのインターで超数少ない「黄色人種」だったことで、当時のクラスのドン的な子に目をつけられ、いじめられていたことを表すのにピッタリの表現だと思ったからです。
圧倒的力を持つ側が、その力の大きさを正しく自覚せず、他者(の世界)にその力をふるう。クラスのドン(NBくん、仮称)は、まさに「無邪気」に子どもの私に接しました。今思うと、NBくん当人にはいじめているなんて気持ちが無かったんだろうなと思っています。ですが、受け手側の幼き私がそれを辛いと思ったというだけの構図です。
辛いと書きましたが、一番記憶に残っている感情は「悔しい」だっとなと今は思います。ありとあらゆる観点で圧倒的に「負けている」という状態。その状態でちょっと威丈高に接して(子どもによくある程度で)くることで感じる存在を否定されたかのような感覚。もちろん辛くもありましたが、何より「悔しい」「負けたくない」「なんとかしてやる」という風に現状を打破するための糸口を探し、人権を回復しようと9歳の私は決意します。
Q. 人権回復の手段は?
A. 「成果」で認めてもらう
これが当時の彰人くんのアプローチでした。勉強と運動という子どもにとっての「成果」で勝ち、認めてもらうことです。
この辺りぐらいで前半戦は終わりです。後半戦についての次のnote第三弾は、人権回復のための幼き戦いの行方、ラブロマンス(誇張)、週末の日本人補習校、帰国後待ち受けていた異世界(日本)について書こうかと思います(予定)。
さて、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。楽しかったでしょうか?数分の娯楽になっていれば本懐、何かひとつでも気付きを提供できていればとっても嬉しいです。
ではでは、第三弾をお楽しみに👋