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「もう恋なんてしない」は、どうしてもう恋なんてしないのか?を読み解く

1992年(平成4年)に発売された槇原敬之の名曲、「もう恋なんてしない」の歌詞を読み解いて解説したい。

僕が初めて触れたJpopが槇原敬之だから、それはもう強く思い入れがある。
小学生の頃は、擦り切れるほど録音したカセットを聴いた。
歌詞から感じとっていることが、たくさんあるので、『槇原ドリル』の流行りに便乗して歌詞考察をしてみたい。
どうして、もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対なのか、解説したいのです!

ネット上に溢れる考察とは少し違うので、僕の読み解いた内容を残さずにはいられない!
ということで、歌詞を深掘り考察していきます。

ざっと自己紹介

僕は、あきむーと申します。
Twitchで配信活動をしています。
平均して年間50冊ほどの書籍を読んでいます。

ミステリーが好きですが、SF、ファンタジー、ライトノベル、ビジネス書、古典、哲学書、麻雀本など、読む書籍は幅広いです。
好きな作家はコナン・ドイルと伊坂幸太郎。

長年の読書で培った読解力と、ホームズで身につけた推理力を活かして、読解することをコンテンツ化していきたいと模索中です。
では、僕の歌詞考察やっていきます!

歌詞読解Aメロ

君がいないと 何にもできないわけじゃないと
ヤカンを火にかけたけど 紅茶のありかが分からない
ほら朝食も作れたもんね だけどあまりおいしくない
君が作ったのなら文句も 思いきり言えたのに

「もう恋なんてしない」Aメロ

槇原敬之は作詞を先にして、メロディと伴奏を後で付ける作曲方式を取っています。
そのため歌詞は、物語のような構成になっています。
この曲には、起承転結があり、時間が経過する物語なのです。

■歌詞のコンセプト

まずこの曲のコンセプトから。

当時槇原のサポートキーボーディストを務めていた本間昭光(後にプロデューサーとしてポルノグラフィティやいきものがかりなどを手がける)が歌番組楽屋にて「俺、失恋したんだよ~」と槇原に話すと槇原が「本間さんが元気になる曲を作りますよ~」と言い「もう恋なんてしない」を作詞・作曲。

「もう恋なんてしない」Wikipedia

元気になる曲にするため、主人公が前向きになる物語です。
この前提があると、読み解きやすくなります。

■セットアップ(物語の前提)

Aメロでは、物語がどういう状況かを完璧に説明しています。
主人公である「ぼく」の人物像、恋人との付き合いかた、どうして現状があるのか、など。
多くの情報が詰め込まれています。

かんたんに3つのポイントを書き出すなら以下の通り。

  1. 同棲していた恋人とケンカして出ていってしまったこと

  2. 主人公の男性が情けなく、子供っぽい性格であること

  3. 恋人に対してモラハラしてきたこと

大雑把に、この3点をAメロでは伝えています。
でも、それじゃあ面白くないのでもっと深掘りしてみます。

■コーヒーじゃなくて朝食に紅茶?

『どうして紅茶なのか』について、他の方たちは歌詞考察で触れていませんでした。
僕は、紅茶であることに強い違和感を覚えていました。
現代でも、朝起きてすぐ紅茶を飲む人は少ないと思います。
(午後の紅茶はありますが朝の紅茶はありません……。朝の紅茶がしっくりこないのは、なんででしょうね?)

Aメロでは、「ぼく」に別れの原因があったと表現されています。
彼が抱えている不満や憤り、イラ立ちなどの複雑な心境が読み取れます。
彼女が出ていって間もないことが推察できます。

それを強く表すのが、この紅茶のくだりです。

1992年の大人の朝食には、コーヒーが必須です。
シティハンターに出てくる冴羽獠だって、朝食はコーヒーです。
当時の子供向けアニメ、ドラマ、映画、どれを見ても『朝食に紅茶を飲みましょう』と言ってるものはありません。
朝から紅茶がいけるキャラクターは、僕が知ってるかぎり、杉下右京くらいです。

イギリス紳士のようなジェントルマンであれば、紅茶かもしれません。
彼はどちらかといえば、ジェントルとは真逆の性格です。

薄いコーヒーをすすってトーストをかじるほうがキャラクターとして「ぼく」のイメージに近いんです。
それなのに紅茶を飲もうとするのは、育ちが良いか、コーヒーが飲めないほど子供か、恋人の習慣からか。

いずれにしても、ミスマッチな感じがします。

紅茶を飲む理由を推察すると……
・彼女が紅茶を飲む人だった
彼女がいなくなっても、紅茶を飲む習慣を続けようとしているのは、未練がましくてイケてない。

・「ぼく」がコーヒーを飲めない
美食家のつもりで彼女の料理に文句を言うのに、朝コーヒーを飲めないのはイケてない。

・朝は紅茶という家庭での習慣を続けている
家庭の習慣を続けることは、親から自立できていない感じがしてマザコンっぽくてイケてない。

他にもいろいろあるでしょうが、以上の3点から主人公の「ぼく」がイケてる側じゃないことが伝わります。
当時を思えば紅茶は、「ぼく」のダサさを最大限に表現しているアイテムです。

彼女は「ぼく」のために紅茶と一緒に朝食を用意してくれていたことも読み取れます。
それは次の部分で表現されています。

■キッチンにあるものがどこにあるのかわからない

キッチンは、彼女の担当だったということです。
平成4年の曲なので、昭和の男女観が色濃く残る考えかたです。

現代で、このような考えかたを表現すると揉めそうですが、そういう時代のそういう物語だとして読み解いていきましょう。

家のことは、彼女がほとんど行っていた。
彼女は彼の身の回りのことを何から何までやってくれていた。
ここまでは、かなりの人が読み取れているかと思います。

「君がいないと何にもできないわけじゃない」
という冒頭で発言されている「ぼく」の強がりは、Aメロ内で論破されています。
彼は、自分が思っているより、何にもできない存在であると書かれているのです。

■『ほら』と言わないと彼女の主張が正しいと認めることになる

この『ほら』は、『だから言ったでしょ?』の『ほら』です。
『ほら見ろ』『ほら見たことか』『ほら言っただろ?』
という意味合いが強くあります。

「ほらどうだ、朝食も作れてるだろ? 君が言うような男じゃないだろ?」と反論するように行動した朝だったのです。

別れる前に言い合いになって、「私がいないと何もできないくせに!」とでも言われたから、『ほらどうだ』と言い返したい気持ちになるのです。

ヤカンを火にかけた、朝食も作れた、家のことも少しできた。
ほとんどは「君」が言った通りだったけど、「ほら朝食だって作れた」と言って強がっているのです。

ケンカしたときの彼女に対して、
『ぼくだって何にもできないわけじゃないだろ?』
とドヤっています。

この辺からも、彼の器が小さいことは推察できます。

そして、この食事が夕食じゃないことにも注目したいところです。
時間の流れは、この後の変化につながるので、この曲を読み解くのに重要な部分になります。

ケンカして彼女が出ていった直後の朝。
まだ別れて間もない「ぼく」は、彼女に対して怒りを抱えているので、世話を焼いてくれた「君」に対して強がる気持ちが前面に出ています。

しかし、何も思ったようにできなくて、出鼻をくじかれます。
控えめに「朝食も作れたぞ」と小さなことでドヤって、自分の威厳を保とうとしているのです。

そして紅茶を飲み合わせる朝食ですから、作ってもせいぜいトーストと焼いたベーコンとスクランブルエッグです。
ご飯と味噌汁のような手間がかかる和食でないことは、間違いありません。
それぐらいの朝食は、小学生でも作れます。

「ぼく」がすごく子供っぽくて器の小さい男だということがよくわかる描写です。

■だけどあまりおいしくない〜文句も思いきり言えたのに

当時、アニメや漫画で「美味しんぼ」がブームでした。
美味しいものにこだわる人をグルメ、通(つう)といって、味の違いがわかることをステイタスとしていた時代です。

現代から見れば、ただのモラハラ男ですが、時代背景を考えてみると、そこら辺によくいたステレオタイプに思えます。
当時は、他人が作ったものに対して「おいしくない」と否定することは珍しくありませんでした。

このあたりから、「ぼく」が意識の高い美食家(グルメ)だったことが読み取れます。

彼女は、そんな彼の趣向に合わせて美味しいご飯を作ってくれていたのもわかります。
あんまりおいしくないだけで文句が出るということは、文句が出ないようにおいしいご飯を作ってくれていたのです。

そんな彼女の努力について、彼は何も考えたことがなかったようです。

世話の焼きかたから考えて、もしかすると彼女のほうが少し年上なのかもしれませんが、そこについては歌詞本文の中からは読み解くことができませんでした。

亭主関白を気取りつつも、子供っぽい。
美食家を気取りつつも、朝は紅茶。
自分にもできることがあると言いつつ、朝食を用意することも手間取って、あまりおいしくない。

槇原敬之は、そんな「ぼく」のチグハグさを、たった4行で表現しているのだから、平成の宮沢賢治と言っても過言ではないと思います。

物語の状況説明が、たった4行に詰め込まれたAメロ。
さすがに情報量が多くありました。
この後、時間が進んで物語は進んでいきます。

長くなったので一回ここで切って、次回につづきます!
読んでいただいて、ありがとうございました。

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