盛岡を離れて
先日、私は盛岡を離れた。4年間居住んだこの街を。
第一志望だった大学に2度落ち、落胆の内に盛岡に来た。
3月末のギリギリの引っ越しで慌ただしく仙台から移り住んだので、一度も来たことのない土地に戸惑いを隠せなかった。
4月になるというのに、息を吸うと肺がツンと冷たくなる空気だったことを覚えている。
1. よ市
大学1年生の春から2年生の冬まで、材木町という街に住んだ。
ここの商店街では「材木町よ市」と呼ばれる週末市が、4月~11月の毎週土曜日に開かれる。
盛岡の冬は長いので、4月でも固まった雪が道路に残ったままだが、よ市に人がガヤガヤと集まるところを見ると春の訪れを感じた。
私が住んでいた部屋は商店街に面したアパートの2階で、週末になると町内アナウンスが部屋の中まで響いていた。
今年が初めてなのかと思うほど、不慣れなアナウンスをするおじいさんの声。
そんな思わず笑ってしまいそうになる声に誘われるかのように、私は隣の部屋をノックして、秋田出身の浪人生と商店街をふらっと歩いた。
活気ある商店街に何度元気をもらったことか。
特に私が気に入っていたのは「可否館」。
カウンターとテーブル合わせても10名入れるか入れないか程度のこじんまりとした喫茶店で、ブレンドコーヒーとくるみクッキーを好んで頼んだ。
ああ、ソフトクリームオススメされていたのに、食べ忘れてたなあ。
2. Liebe
盛岡の街をあちこち歩いて初めて気づいたが、実は昔ながらの街並みや昔ながらの純喫茶、商店街など私好みの場所が他にもある。
肴町や紺屋町の連なる家々、タイルのような道路、川辺の道をゆるやかに吹き抜ける風…。
喫茶「リーベ」にはよくお世話になった気がする。
また次に来た時は、ティーパンチを頼もう。
大学3年の春~4年の冬まで、西下台町という場所に移った。
ここは材木町よりも閑静な住宅街で、以前のように週末が騒がしくなるようなことはなくなった。
引っ越し先の部屋はワンルームで、屋根の高いロフトのせいか冬になると少し底冷えするところだった。
広々としたロフトは172㎝の私が立っても余裕のある高さと広さがあったので、当初は満足していたが、その代償として湿気と室内の気温差に悩まされることに…。(この経験は東京での新居探しに生きた)
その部屋で、私が唯一気に入っていた場所がある。キッチンだ。
ここで、私はマイペースに自分の時間を過ごすことができる。
自炊が好きだったので、思うままに料理を作り、楽しむことができた。
手になじむキッチン用具と使い慣れた調味料、見た目にも綺麗な皿で仕上げる料理は満足いくものが多かった。
3. 開運橋の逸話
大学のサークルの先輩から教わった逸話にこんな話がある。
「人は開運橋(盛岡駅の真向かいにある橋)を渡るとき二度泣く」という。
はじめて盛岡を訪れると「どうしてこんな田舎に来てしまったのか」と悲しくて泣き、
離れるときには「どうしてこんな良い土地を離れなくてはいけないのか」とまた悲しくて泣くのだ。
生憎私は一度も泣くことはなかったが、盛岡に対して逸話通りの印象を持った。
住む人は優しく、食べ物は美味しい。
開けた土地のおかげでドライブやツーリングが楽しめる。
伝統と革新が入り混じったような街であることが、細部を見つめるとあることに気づく。
冬は凍える寒さ。夏はうだるくらいに暑い。
他の都市部のように遊ぶ場所が多いわけではない。
そんな愛らしいところ、憎らしいところも含めて、
私はこの街が好きになった。
これから始まる東京での修行生活を経て、私はひとまわり大きく成長して盛岡に戻ってくるだろう。
もしかするとその時は、盛岡も「降車場所を間違えたのか?」と思うくらい変わっているかもしれない。
別に私がいた当時を思い出して郷愁の想いに浸るつもりはない。
思い出は心の中でとどめておくに限る。変わらないものはないからだ。
願わくば、またここに来るときは、笑顔で開運橋を渡れますように。
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