The100を観終わった感想
※ネタバレを含みます
というわけで今回は海外ドラマ「The100(ハンドレッド)」の感想です。
その前にご説明しておくと、我が家では少し前まで毎週1〜2回ほど市内のTSUTAYAへ行って旧作DVDを借りてくるのが常でした。シニア特典で旧作なら週1枚借りられる父がその権利を活用していたからです。
1枚だけの頃は映画が中心だったんですけど、その後TSUTAYAプレミアムのサービスが始まり、月1000円ほど払えば一度に旧作5枚まで借り放題と知って即加入。無料で旧作を借りるついでに他にも見たい作品を数枚同時に有料で借りることが多かったので、プレミアムに加入する方がコスパが良かったのです。一応サブスクを見られる権利もついてましたしね。加入当初のTSUTAYA TVは正直配信ラインナップが貧相でしたが。
父は洋画と海外ドラマが好きで毎晩1つは見てからでないと寝ません。もう十数年続いている習慣です。
しかし今回語ることになる「The100」は最初の方こそ楽しめていたものの、シーズン3あたりから話についていけなくなったらしく僕だけ楽しんでいる状態。父の方は見たくないようなのでシーズン6まで見て7がまだ準新作で無料の範囲では借りられないとなった時、そのうちサブスクに来たら1人で見ようと決めて一旦中断しました。
ところがこのドラマ、待てど暮らせど我が家が加入したサブスク(dtv→プライム→U-next→hulu)では配信してもらえず機会が無いまま数年が過ぎ、その間に市内に一軒しかないTSUTAYAでの借り放題サービスも終了。このままファイナルシーズンだけ見ずに終わるのかなと思っていたところ、写真無制限バックアップのために再加入したAmazonプライムで7シーズン全てが配信されているのを発見。
前置きが長くなりましたが、そんなわけでようやく見られたため感想を書くこととしました。
まず、と言うにはだいぶどうでもいいことを書いてしまった後ですが、とにかく結論から書いてしまうと面白かったです。
実はシーズン6を見た後、どうしても結末が知りたかったのでネタバレでその部分だけは読んでしまったんですよ。だからどういう結末になるのかだけはすでに知っていたし、その結末が賛否両論で、見た感じ否の方が多いことも承知の上で見ました。
僕も終盤の展開の速度や雑さは正直どうかと思います。でもアメリカのドラマなんて投げっぱなしで終わることも多い中、きちんと結末まで描いてくれたこと、そしてその結末が個人的には納得いくものだったという二点で記憶すべき名作だと考えました。他の人がどう結論付けようと、僕にはこれは間違いなく名作です。
特に、主人公なのに作中でも視聴者からも嫌われまくりのクラーク。そりゃあれだけ大勢を殺して嘘をついて裏切って身勝手な行動に走ってを繰り返していれば嫌われもしましょう。最後までそれは変わりませんでしたし。
でも、そんなクラークの選択によって救われた人々がいたのもまた事実。ていうか序盤なんかクラークが頑張らなきゃ早々に全滅してたはず。他の主要キャラも大体同じ。時には視聴者をドン引きさせるような選択をして、それでも結果的にはそれらの一つ一つがハッピーエンドに繋がったわけです。
そう、ハッピーエンドなんですよ。あの結末についてもやっぱり賛否両論なんですけど、間違いなくハッピーエンド。
地上に残った人類は残りわずか。だからどうした?
子孫を残せない体になった。どうせすぐに絶滅する。だから何?
最後に残ったメンバーは全員愛のために動いていた者たち。愛する家族や恋人や友人と一緒にいられればそれでいい。
もちろん「超越」後の世界でもほとんどの親しい人たちとは一緒にいられる。でも、それではクラークのことは見捨てることになる。それは自分たちにとって本当の幸せじゃない。そう思った面々だけが戻って来た。そして彼らは当然残されたクラークにとっても大切な人々だった。
だったらあれは最高のエンディングです。そこに到るまでの過程がどうだったにせよ結末は良かった。クラークに撃ち殺されてしまった彼だって生きていたら必ず同じ選択をしたでしょう。彼らにとっては老いも病も争いも存在しない世界よりクラークの方が大事だったのです。
これってクラーク自身のスタンスと同じなんですよね。私にとっては世界より愛する人たちの方が大事。よく自己中心的と言われる彼女ですが、それでこそ人間だと思います。
合理的な判断をするなら、そりゃ世界の方が重要でしょう。数え切れない生命が存在する世界と少数の命。どちらかしか守れないみたいな選択を迫られたら理屈の上では前者を選ぶしかない。その理屈が自身の理想と一致していたので迷わず突き進んでいたのがカドガン。
でも僕はカドガンが嫌いです。合理性しか求めてない人間は虫みたいに思えます。そして僕は大の虫嫌いです。
もちろん、そういう選択をすることも自由なんですけどね。カドガンに最後の審判を委ねた方があっさり事が進んだであろう事実も否定しません。
ただ、この自由というところが人間らしさだと僕は思っているのですよ。
だって人間だけでしょう。クラークたちのように感情に任せて「どうしてそうなる!?」と言いたくなるような選択を連発する生き物なんて。
他の生物は生き残ることに必死です。必死というか、生き延びようとすることが当たり前で、その本能に逆らうことは基本的にありえません。
なのに人間はどう考えても破滅に向かってるとしか思えないことを次々にやらかします。どころか自分で自分の命を断つ人も後を絶ちません。
人間は他のあらゆる種族より自由な生き物だからです。僕自身の書いた「人竜千季」という作品でも作中のキャラが言いました。時には不条理なことでも自分の意志で選択できる。それが人間だと。
元ネタはゲーテだそうですが、僕はアニメ「ビッグ・オー」で知った言葉にもこんなのがあります。
「雨の中、傘を差さずに踊る者がいてもいい。それが自由というものだ」
人間は自由だからこそ人間だと、僕個人はそう思っています。そして自由とは読んで字のごとく「自分を由(よし)とする」ことです。
感情に振り回されるでも、合理性を追求するでも構いません。ただ自分がそうしたいと思ったことを受け入れて行う。それが自由です。良くも悪くも、これができるのは今のところ人間だけ。だから人間であるとは自由であることだと、そう思うのです。
そして、だからこそ裁判官の最後の言葉に救われる。一度はクラークの暴挙によって審判に落ち、滅亡が決まった人類。なのにレイヴンが食い下がり、オクタヴィアたちの活躍もあって挽回した。生き残っていた人々全てが救われた。
そのはずなのに、やっぱりクラークだけが取り残されることは許せない。そんなんだったら自分たちは老いて病んで死んでいく世界に戻るぜと数人は戻ってきてくれた。
これぞ人間。そんな人間を結局上位存在である裁判官もこう評します。
「本当に面白い種だ」
神様のような存在にも面白いと評価された彼らの生き様。それを描いた作品なんですよThe100は。
色んなことがあって、ふざけんなと言いたくなった場面も多いけれど、だから僕は言い切れるのです。クソ面白い作品だったと。
僕の小説も、いつか大勢の人に面白いと評価してもらいたいものです。その何倍もの人間に酷評されるかもしれませんが、だからどうした。
僕は常に自分にとって最高の作品を書いている。僕にとってThe100が最高の名作になったように、他の誰かにとってもきっと僕の作品は名作になる。
それで良し。僕は僕自身と僕の作品を由とする。
自由とはそういうことで、人間とはこの世界で最も自由な生き物だ。誰に何を言われようと自分の好きを詰め込んだ創作を続けていくぞ!
この作品の結末を見届けることで、改めてそう思えたのでした。というのが今回の感想。
長ったらしいですね。やっぱり一言でいいや。
面白かった!