変身ポーズ_t

第6話/全9話 小説家・小林敏生の変身

 これまでの話/主人公・小林敏生は5歳のとき結婚の約束をした井上安子のことが忘れられずにいた。安子が井上エリスと名前を変え、人気女優になってしまったからだ。一方敏生は編プロに勤めながらスーパーヒーローの小説を書く、冴えない日々を送っていた。鬱々とした生活の中、敏生は何度も繰り返し同じ夢を見てしまう。5歳の敏生はファイブレンジャーレッドになって安子を迎えに行き結婚する約束をするが、井上安子が最後に何と言ったのか敏生は思い出せない。そんなとき、インタビューの仕事を通じて二人は11年ぶりに再会するが、敏生は自信のなさから名乗り出ることができないのだった。

 深夜にもかかわらず、市ヶ谷の芸能事務所の明かりは消えておらず、中に井上エリスがいるという直感はますます確信めいていた。   
誰も俺を止めることはできなかった。形骸化した警備システムは俺の敵ではなかった。ガラスのドアを蹴破ると、月夜に細かなガラスの破片が飛び散った。俺の姿を認めた警備員たちは次々に逃げ出していった。警報ベルが鳴り、残業していた社員たちが次々に飛び出して来た。みな、俺の姿を認めると悲鳴をあげ、中には腰を抜かしてしまう社員までいた。テレビのヒーロードラマで見た、主人公が初めて変身したのを見た人々のリアクションそのままだった。


 俺は変身したい、強くなりたいと望んだ。だが、望み通り変身できた高揚感は、不思議と自己肯定感にはならなかった。何故か思考はストップし、変身したい、強くなりたいと俺が望んだ理由の奥にはもやがかかっていた。なぜ?と問いかけるのは禁じられていた。その感覚に俺は覚えがあった。俺の親父だった。飲み、打ち、買い、母親を泣かせ、もう二度と会えなくなった俺の馬鹿親父。家族を失ってもなお、親父が飲み打ち買い続けた理由を考えようとするとき、俺の頭にはいつももやがかかる。変身し、強くなった俺が満たされない理由を考えようとするとき、俺の頭には同じもやがかかっているのだった。


 俺は直感を頼りに井上エリスを探した。いくつかの階段を駆け上がり、いくつかのドアを開けたとき、おそらくダンスレッスンのための部屋だろう、大きな鏡張りの部屋に行き当たった。
暗く、広々とした部屋には月明かりだけが差し込んでいた。遠目に、黒く、赤い目を光らせた俺のシルエットだけが映っている。俺は壁面の大きな鏡に静かに近づき、初めて自分の姿をまじまじと見た。
甲羅のように固く、丸みを帯びた背中。腹は筋張って息をするたび膨らんだりへこんだりを不気味に繰り返した。触角は長く、地面に付きそうで、俺の思考に合わせてレーダーの様に揺れた。何より、黒く固い外骨格に覆われた身体はてらてらと脂ぎっていた。自分の体臭はわからないものだが、きっと臭いに違いない。それは井上エリスがインタビューのときプロフィールに特に嫌いだと書いた、ゴキブリの姿に相違なかった。


 俺は叫んだ。叫びたかった。だが俺には声帯がなかった。口からしゅう、と不気味な音をたてて空気が漏れただけだった。


「としきくん、あのね」


 その時背後から聞きなれた女児の声がする。何度も何度もリピートして聞いたくせに全く色褪せない、むしろ鮮やかさを増す、5歳の井上安子の声。振り返った先には、何度も何度も繰り返して見た井上安子の姿があった。黄色い幼稚園の通園バッグから、ピンクの折り紙で作った、ハートや鶴やウサギを手に一杯持ってこちらを見てにこにこ笑っている。


「としきくん、――――、―――。――――――。―――。」


 今日もまた、俺は井上安子が最後に何と言ったのか、思い出せないままなのだった。


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