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Taufe 洗礼。バイエルン州に入る前に。
当初はウィーンに寄って南下しながらバイエルン入りする予定をしていたのだが、さすがに大きな荷物を抱えては動きづらくなってきた。
今はベルリンまで出た後、ミュンヘン行きの列車に揺られている。通り過ぎる駅の何の関連性もない無数のスプレーアートが妙に首都ベルリンの都会的な印象を強くした。
朝5時過ぎにゴードンにバールートの駅まで送ってもらったのだが、カトリンが食事とお菓子を持たせてくれた。最後の最後まで気を遣ってもらい本当にありがたい。そして料理上手なカトリンのお弁当をいつ開けるか、今か今かとそのチャンスを伺っていた。
ミュンヘンに近づくにつれ同じドイツ人とは言え乗り込んでくる人の顔つき、ドイツ語のイントネーション。
次第にバイエルン色に染まってくる。
不思議なもので、初めてドイツに来たときは、白人を見てどこの出身かなど分からなかったのだが住んでいると次第に分かるようになってくる。これは私たちがアジア人の顔つきを見てどこの国の出身か何となく分かるのと同じことだ。逆に言えば、なんらアジア人に興味のない欧米人からすれば、日本人も中国人も皆一緒に見えてしまうのも当然の事なのかもしれない。
他国と一緒にされて嫌な思いをしたという人もいるかもしれない。一言でいえば日本人であることのプライド・自尊心がそうさせてしまうのだろうが、果たして今の日本を見ていてそのようなプライドを持てる国の在り方なのか、先進国の中の先進国という立ち位置にいるのか?住む人の豊かさはどうなのか?分からなくなってしまうのである。
学生時代を振り返れば、実に豊かだったと思うのは、昭和人間の妄想だろうか。
修行時代。バイエルン州から出ることのなかった自分が持っていた北への“偏見”は無意識のうちに跡形もなく消え去っていた。
列車がバイエルンに入り嗚呼これがドイツだったなという感覚に、窓から流れる景色をぼんやり見つめながら感じている。故郷に戻る感覚とでも言うべきだろうか。もっともその『ドイツ』とは南ドイツ、バイエルン州の片田舎の事だったのだということを恥ずかしながらこの旅で教えられた。『知らない』とは恥だという事を身をもって知ったのである。
さてさて。
そろそろカトリンの弁当でも食べよう。満たされた気分が最高潮に達していた。
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私のように大きな荷物を抱えて列車に乗り込んでい来る人も多い。大陸で繋がっているヨーロッパだし都市間を繋ぐ列車なら尚更だ。
向かい合いの4人掛け席の反対側の席にも私のように大きな荷物を抱えた女性が2人座っている。
例えるなら良く寝た後、何をするわけでもなく単にボーっとしているときのような気分に近いような全身が良い意味で脱力し満たされた気持ちのまま、カトリンの弁当を頂くのである。最高ではないか。しみじみと弁当を開け食べ始めたまさにその時
“そこどかせろ!”
肉をプラスチック製のBesteck(ベシュテック:カトラリー。この時はナイフとフォーク)に突き刺した時、その無骨な言いぐさの声に我が心と共にポキンと折れた。
一瞬にして目が覚めた、という表現が相応しい。
それまでの北ドイツでの温かな出来事。そして見ず知らずの乗客たちとの空間であったが、たしかに『その時』までは非常に温かい雰囲気に包まれていた。
先ほどの隣の席の女性たちも注目しているらしい、視線を感じた。
座っている私が振り向くと、同じ目線に可愛らしい金髪の少女が立っていた。怒号のような声は一体どこから?
少女の脇にある長い脚のジーンズを辿っていくと、男と視線がビッタリ合う。
“その荷物どかせてくれ”
実際にはそうはいっていないのかもしれないが、バイエルン人の言葉の強さからどうしても圧を感じてしまう。
そのため、それに慣れるまでは嫌な思いをすることも沢山あると思う。これは外国人だから、という事ではなく、同じドイツ人でも違う州出身の人も感じることのようだ。
その圧はまるで自分が悪いことをしたかのような感情さえ生み出すほどだ。
今の今まで自分は実にぬるま湯に浸かった、甘ったれた生活を送っていたのだ、申し訳ない。なんて訳の分からない自己反省を一瞬してしまう。
そそくさと私の向かえに座った2人は、共同の小さなテーブルでカードゲームを始めた。うん。食事がしづらい。
食べながら2人を観察していると、その男は可愛い娘の為なら何でもする子煩悩な父親で、娘の要求通り無限カードゲームが始まった。
ずるい男だ。
初めにあれだけのくさびを打たれて、その真逆の顔を見せつけやがる。いい男じゃないか。
今思えば彼に対しては感謝しかない。バイエルンに住んでいた時の感情、心構えをすべて呼び起こしてくれた。
それが無ければ、言葉尻でイライラが募るばかりだったかもしれない。いい男じゃないか。
終点のミュンヘン中央駅は以前と何も変わっていない。
ザルツブルグ行きの列車が出る場所も昔と変わっていない。
あと一時間。
修業時代を過ごしたキーム湖の畔の町、プリーンにいよいよ帰還する。
Taufe 洗礼