建築学生失格

建築学生として過ごして2年が経つので、ここらで記録しておこうと思う。

建築に興味を持った明確な瞬間がある。金沢にある高校に通っていたのだが、学校帰りによく金沢21世紀美術館などに寄っていた。金沢城や兼六園といった古くから守られてきた場と21世紀美術館は連なり、心地よい都市空間を生み出している。この都市空間を歩き、俺はこの空間を作り出す建築というものに注目し、都市を変えるのは建築なのだと確信し、建築への道を志した。

通っていた高校は県下一の進学校であった。踠いても踠いても周りにいる人々に追いつけやしなかった。教室という単位空間の中で皆が必死に与えられた問題集を解く様を見て俺は心底苦しくなり、何度も逃げ出したことがあった。俺に纏わりつく諸悪は高校によってますます体を大きくしていったが、21世紀美術館のタレルの部屋で空と交信することで諸悪が空に吸い込まれていく感覚を楽しんだりした。

受験では高3の初めは横国を目指していたが、阪大の地球総合工へいつのまにか志望校が変わっており、阪大模試は常に無謀な結果であり、阪大へ推薦を出したりもしたが、無惨な結果に終わった。夏の文化祭で脚本に時間を割いていたり、推薦の文章の作成などで時間は失われていき、また勉強時間が沢山確保できるはずの土日さえも10時まで寝てしまったりするなど、どこかまだ死に物狂いで勉強ができているとはいえない状況が続き、そんなふうに受験期を過ごしていた。受験直前になって、志望校が神戸大に落ち着いた。直前期は死に物狂いで勉強したが、神戸大には届かなかった。模試でいつも高い点数を取れていた数学は、難化によって、ちょっとできる奴はできない奴と同じ点数になった。2次試験は数学の問題で手こずり、受験中に不合格を確信した。今でも目を瞑れば、涙を流しながら六甲の坂を降りた記憶にすぐアクセスできる。後期で受けた今の大学になんとか合格し、進学することになった。出願直前に有名な建築家がいるということで急に選んだ大学だった。

大学に入学し、大学設備に初めて触れた時、ひどく悲しくなった。夢に見たキャンパスライフとはほど遠かった。有名大学に進学した高校の友人たちの大学生活とは全く違う。小学校ほどの敷地しかないこのキャンパスは食堂もメニューが少なく、生協は15時で閉まる。図書館は19時で閉まる。設備だけではない、この大学で触れ合う同期たちとはあまり仲良くできそうになかった。ノリというのがなんというか自分が中学生の時に感じていたあのノリがそのまま残っている感じがしてひどく狼狽した。皆第一志望でこの大学にやってきており、目がキラキラしていた。建築の話をしようと思い、話を振ったら、皆安藤忠雄すらも知らない状態だった。話が合わない、というのを一瞬にして察知した。けれどもこの大学でうまくやっていくために、そんな俯瞰した痛い自分を殺して、彼らのノリに必死になってついていった。家に帰っては、すぐに他の大学に編入してやろうと毎日思っていた。建築ができればそれでいいじゃないか、と言い聞かせたが、何度も浪人すれば良かったと後悔した。大学生活を楽しもうと思い、大好きだった音楽をやってやろうと期待を抱いて軽音楽部に入ったが、うまく馴染めなかった。1年のうちから製図などやらされ、一人暮らしにも全く慣れていない状態で、ギターの練習に時間を割けることができず、バンドを組んでいたメンバーに難癖をつけられたりした。建築の課題は誰よりも建築に詳しいはずなのに、丁寧に図面が引けないせいで、いつもC-など最低評価を受けていた。段ボールで作った梱包箱を、ゴミだね、と助教にあしらわれた。芸術系の講義で制作した成果物もうまくいかず、成果物であった球体は、同期たちの遊び道具となり、蹴られたりしていた。同期たちが帰った後、くっちゃくちゃになった球体を見て何も考えることができなくなった。それでも卒業設計展の準備を行う団体の活動は必死に参加した。1年のうちから動けるだけ動こうと思い、アクティブに動いた。

大学では様々な設計課題を乗り越えてきたが、どれも教授たちの評価はイマイチだった。2年になって、最初の課題だった住宅課題では、初速こそ良かったものの、終盤になって行き詰まり、提出最終週にヘザウィック展を観に東京まで行くと、台風がやってきて帰りの新幹線に乗れず、時間を失って表現に時間を注げず、満足のいく物を出せなかった。次の美術館課題も、教授に全く納得されないコンセプトをうまく表現することができず、コンセプトも表現も最低な物を提出することになった。大学の人間との人間関係に悩まされた時期でもあった。

休み明けの小学校の設計課題の最中は、当時付き合っていた彼女に振られ、精神が沈んでしまった。WI-Fiの契約がうまくいってなかったせいで、6万円も失った。今までずっと前で講義を受けていたが、次第に休む回数も増えて、設計課題以外の成績も悪くなってしまった。教授が俺の設計や表現を見て呆れていた顔がずっと脳裏にへばりついている。精神が崩れ始め、卒業設計展の準備を行う団体にあまり顔を出せなくなってしまった。重要な役職についていたために、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。

2年の大方の課題は信頼している先輩に助けてもらってばかりだった。自分でこなす術すら持ち合わせていない。建築についてあまり詳しくなかった同期たちは段々建築に魅了されていき、建築が好きだというエネルギーを味方に表現に磨きをかけていった。俺は彼らと自分のギャップにまた苦しくなった。

建築をやりたい、と強く思い、地元を飛び出してきた。奨学金を借りてまで大学に来ている。親愛なる家族は県外で俺が学ぶために必死に働いた金銭を投じている。この学問を学びたいと強く志していた入学当初のような熱量はもうどこにもなく、ただただ多忙な生活に苦しめられているというのがやるせない。自身で選んだ道だろ、と言われればそうだけれども、どうもこの道が本当に自分が輝ける道なのか、と考えると自分がオフロードにいるような感じがしてならない。熱量が減衰していく様をただ眺めているだけで、この2年間で何も成長できていない気がする。エネルギーはだんだん建築ではない部分に広がっていった。所属する建築とは無関係のサークルが俺の唯一の心の拠り所である。

大学も3年になった。この高層ビルが立ち並ぶ街で俺は3度目の春を迎えた。大学という場が、競り合い、冷笑、自己顕示、様々な見えない物を勝手に想像してしまう場であることを思い出した。もう映画観てる時や小説を読んでいる時、音楽を聴いている時しか楽な気持ちになれない。新しい設計課題が出された。俺はこれを完遂できるのだろうか。

でも本当にこのままじゃダメだと思っている。だからできる限り前に進みたいと思っている。嘆いてばかりだが、自己ベストを毎回更新していきたい。風はまだ止まっていない。建築はまだ好きだ。微かに吹いている。桜の花びらを舞わせることができるぐらいには風が吹いている。最大瞬間風速をどんどん上げていきたい。いつの日か新幹線を止まらせた台風のようになりたい。今宵は風が強い。春の夜風はすごく気持ちがいい。

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