『八郎潟はなぜ干拓されたのか』を読んで
こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。
前回の投稿では、わたしが大潟村に対して抱いていた疑問と、ある本を読んでそれがかなり解消されたこと、そしてその本の内容についてまとめました。
前回では本の要約が中心でしたが、今回は谷口吉光さんの『八郎潟はなぜ干拓されたのか』を読んでわたしが思ったこと、感想を書いてみたいと思います。
大潟村ではなぜ大型機械を取り入れた大規模農業が可能なのか?
大潟村はなぜ県内でもっとも平気所得が高いのか?
大潟村だけがなぜ秋田県内で唯一消滅可能性都市を免れたのか?
その答えは、大潟村が日本の農業の未来を担う「モデル農村」として作られたからでした。
もちろんそれには大潟村に入植した人と、これまで大潟村を作り上げてきた人々の努力があってこそのものだと思います。
しかし最初に与えられたものの規模が、周りと比べてあまりにも凄まじかったと言わざるを得ません。
2.5ヘクタールもあれば農家として「上の下」か「中の上」の暮らしができると言われていた時代に、1戸あたり10ヘクタールも配分されるとは、スケール感が違います。
八郎潟干拓が国営の事業となり、池田勇人首相の「高度成長・所得倍増計画」が打ち出された直後の時期だったからこそできた農地配分だったのではないでしょうか。
本の中に「漁業か農業か」で地元の意見が対立するシーンがあります。
わたしの感覚からすると「どちらも重要な第一次産業なんじゃない?」と、どこか他人事のような感想を持ってしまうのですが、当事者たちにとってはとてつもなく重要なテーマだったんだろうと思います。
当時は戦時中で、国の食糧危機が喫緊の課題でした。
琵琶湖に次ぐ日本第2の広さを持つ八郎潟を干拓すれば、広大な農地が手に入り、多くの人の腹を満たすことができます。しかし一度干拓してしまえば漁場はなくなり、二度と漁業はできなくなります。
わたしはアニメ『進撃の巨人』に出てくる、サシャと父親の会話を思い出しました。
彼らは伝統的に狩猟をしてきたダウパー村の出身です。
ダウパー村は巨人の侵攻から逃れてきた人々が森を切り開いて農地にしたことにより、狩りの獲物が年々少なくなっていました。
サシャの父親は森を明け渡して農地にすることを考えていましたが、それを知ったサシャは「ご先祖様に教えてもらった生き方を邪魔されたくない」と反発します。
おそらく八郎潟干拓の際にも、サシャと父親のような対立と葛藤があったのだろうと思われます。
確かに魚や動物を捕まえることで、人々に食料を分け与えることができます。
しかし農業の方が、よりたくさんの人の食料を賄うことができます。
誰もが人間として生きている以上、「どちらの方法がより多くの人を救えるか」の答えを無視するのは難しいでしょう。
わたしは漁業が農業よりも優先度が下げられた理由に、「生産性が低い」という表現が使われたことに軽くショックを感じました。
そういうわけで、八郎潟で500年以上続いてきた漁業の伝統は途絶えてしまいました。
現存している八郎湖(洪水調整兼灌漑用貯水池)では、佃煮にするためのワカサギとシラウオ漁が細々と行われているのみです。
漁業をする人が激減してしまったために、水中にリンや窒素などの成分が堆積し、アオコと呼ばれる現象が発生しています。
現在でも八郎湖のアオコの発生や水質の問題は解決されていません。
それは本書でも触れられているとおり、干拓推進時に「環境」や「環境保護」という概念がなかったことが主な原因でしょう。
環境を守ることの重要性が広く認識された今、大潟村のような周辺の地形をまるごと変えてしまうほどの巨大開発(ビッグプロジェクト)は、もはや行うのが難しくなっているかもしれません。
そう考えるとますます、大潟村は特殊な地域だなあと思います。