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続・健康って何でしょう?~身体的健康とは~

新型コロナウイルスの感染者数は徐々に増加してきています。
感染爆発とまではならず、アメリカ、イタリアなどの国と比べると、やや落ち着いた印象ではあります…

しかし、院内感染で多くの医療従事者が感染し、外来や救急を閉める医療機関が出てきており、医療の現場はかなり厳しい状況になっています。

また、緊急事態宣言以降、臨時休業する企業は多く、経済への影響が深刻であることも表面化してきています。

先の見えない状態で、社会全体が大きな不安に包まれています。
それでも、今できることを、しっかりやっていくしかないのだと思います。

これは、「今」だけに集中してがんばれ!ということではなく、今後起こりうることを可能な限り想定し、その中の最悪のパターンに対しても、どう対応するのかを事前に検討しておくということです。

もちろん、未来の予想には限界があります。
どんな想定も超えてくる可能性があります。
それでも、何も備えないでいるよりはずっとましです。

外出自粛が長引くにつれて、心身ともに疲弊してきている人もいます。
体の不調を訴える人も増えてくるでしょうし、DVの問題なども出てきています。

最悪のパターンを悲観的に想定しつつも、
ある程度、楽観的に生活することも大切です。
不謹慎な言い方になりますが、この状況を少し楽しむくらいの気持ちが必要だと思います。

この考え方は、有事であれ平時であれ、とても重要なものです。
今回のような先が見えない長いトンネルを、力強く生き抜けるのは、こういう考え方のできる人たちです。

続・健康って何でしょう?

さて本題に入ります。
以前、健康とはどう考えるべきか。というnoteを書きました。

基本的には、この考え方は重要であり、今現在の健康を考える上では間違っていないのかなと思っています。

その時に、この健康の考え方だけでは、うまく説明できないものがあることに気がついたと書きましたが、今回はそれについて書いていきます。

端的に言うと、障害者の方をどう考えるのか。ということです。

きっかけとなった出会い

最近、友達になった人がいます。

面白いし、ナイスガイなので、すぐに仲良くなって、最近一緒に飲むことも多いのですが、彼は身体に障害を抱えています。

先天的なものではなく、後天的に事故で負ったケガ、脊髄損傷によるものです。

下半身不随、上半身にも軽度の障害があります。

僕は仕事柄、今までも障害を持つ方と接する機会は多くありました。
手足を失った方、彼と同じように脊髄損傷によって身体の機能を失った方など、障害の種類や程度は様々です。

当時の僕は、健康という概念について、今ほど考えてはいませんでしたが、今から思うと、そのような方々を、なんとなく身体の健康を失った人だと認識していたと思います。

彼と付き合う中で、改めて身体的な健康について考えました。
僕には、彼が健康ではない。とは思えません。

障害者と健常者

障害者の反対になる言葉は健常者です。
健康者ではありません。

例えばですが、コロナウイルスによる肺炎になったとすると、障害者も健常者も、同じように病人になって、身体的な健康を失います。
つまり、肺炎になる前には、障害者も健常者も、ある程度の身体的健康を持っている状態だったと考えられます。

このとき、身体的健康を奪ったのは、肺炎という病気です。

病気と障害は違う概念です。
ケガや病気によって障害を負うことはありますが、この二つは別の概念と考えることができます。

ケガや病気は、突発的に起こった事象であり、一般的にそこから回復することが可能、もしくは回復を期待できる状態。

障害は、機能の一部、もしくは全部の欠損であり、リハビリテーションなどにより軽度の改善が期待できる場合はあるが、基本的には安定している状態。

こう考えると、定常状態から、突発的に起こった事象が身体的健康を奪うのであり、定常状態での機能障害としての障害は、必ずしも身体的健康を失っているわけではないと言えると思います。

社会的背景による影響

また、その時の社会的背景にも影響を受けると考えられます。

例えば、僕は近視でコンタクトや眼鏡を使っています。

近視は基本的には劇的な改善を期待するものではないです。

先ほどの定義からすると障害に該当すると考えられます。

例えば原始時代。

眼が悪く、獲物を取ることもできない。木の実を取ることもできない。
誰かに助けてもらわなくては生きていけない。
このような状況であれば、僕は自分を障害者だと思ったかもしれません。

しかし、眼鏡、コンタクトレンズが一般的な現在の日本で、近視の人を障害者と考える人はいないでしょう。
僕も眼が悪いからという理由で、自分が障害者だと思ったことはありません。

現代の環境によって、僕は近視という障害を、障害と認識せずに生きていくことができている。ということです。

彼のような障害であっても、車いすの普及や、バリアフリーという概念の浸透、自動車など移動手段の発達、そして彼を取り巻く、人を含めた環境。
こういったものによって、それを身体的健康を失った状態だと思わずに生きていくことは可能なのだと思います。

もちろん、僕がどう考えようが、障害を持っている方本人がどう考えるかが重要なのだということはわかっています。

でも、周囲の人間が、障害があっても決して健康でないわけではない。
そう考えていることは、障害を持っている方が、自分を健康だと思うために必要な要素なのではないかとも思います。

答えがあることではないのですが、今の僕はこんな風に考えています。

まとめ

・安定している「障害」は身体的健康を失った状態ではない

・「障害」を「障害」と捉えるかどうかは(周囲の人間も含めた)社会的背景による

もちろん、医学の進歩で彼の障害が回復するようになれば、それは喜ばしいことです。
しかし、今のままだとしても、僕たちの関係性が、この障害によって変わることはありません。

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秋田 護
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