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人生に深みが欲しいんだけれど。
一時期知的生産法というのに凝っていたことがある。知的生産という言葉は梅棹忠夫の『知的生産の技術』というのに紹介されていた。
ここでは京大式カードというB6サイズの厚紙に豆論文という、数百文字の論文もどきを書いていくということが推奨されていた。
論文もどきという言葉自体はこの本では使われていなかったが、要するに単語を羅列したようなメモではなく、完全な文章で書くというものだった。
しばらくこれにはまった後、経済的な理由とスペースの問題から名刺サイズのものに変えた。これはいまだに机の中に大量に入っている。
大部分が白いところを見ると、あまり熱心にはやらなかったようだが、いくらかは文字に埋められているカードもある。
内容は色々だ。日記に近いもの、思いつきを書き連ねたもの、本の抜き書きなどだ。そういえば本の抜き書きを「写経」と言ったりもするようだ。
このなかで一番内容が濃いのは「写経」、本の抜き書きだ。自分の思いやら考えやらを書いたものは大体が目も当てられない駄文ばかり。悲しいことに。
「写経」の中で目に止まったのが、幸田露伴の『努力論』の一節だった。
天分薄く、資質弱く、力能く巨井を穿つに堪えざるものは、初めより巨井を穿せんとせずして、小井を穿せんことをおもうように、すなわち初めより部面広大なる学をなさずして、一小文科を収せるがよい
でかい井戸を掘ろうとするんじゃなくて、とりあえず狭い井戸を掘れということだ。
要するに、「賢くないやつはニッチを攻めろ」的な感じのことを言っているのだろう。そして、暗に「大体のやつは賢くない」というニュアンスも込められている気がしてならない。
これを書き写した時も思ったのだろうが、あれやこれやと手を出しては引っ込めている自分にとっては本当に耳が痛い。
同い歳の人の中、いや年下の人の中にも掘り続けた井戸から水が溢れているような人はいくらでもいる。そうした人を見ると、つい「そっち側も掘ってみようかな」と思ってしまう。そうして掘り散らかして、結局乾いた土だけが残る。
いつでも新しいことは始められる。確かにそれは間違いない。それだけ自分の幅が広がるというのも、また事実なのだろう。
でも、それと一緒に「自分が何を続けてきたのか」を忘れないでいる必要があるんじゃないか。
新しい井戸を掘り始める前に、少し見渡してみる。自分という地平、自分という軸、自分という流れ。
何に惹かれてきたのか、何に充実感を感じてきたのか、何をやっている時に、一番自分と自分とのフィット感があったのか。
幅を広げてばかりきたこれまでの人生に、深さを与えたい。そのためにはもう少し、自分のことを振り返る時間が必要らしい。