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「巨人の肩の上に乗る川口春奈」の哲学

川口春奈が出ているポテトデラックスのCMがある。「この分厚さが、デラックス」と言いながら、巨大な川口春菜(以下、巨人川口)が登場。再び「この分厚さが、デラックス」と言い、これが繰り返されていく。巨人の登場は4回で、最初の川口春奈を合わせて計5人

つまり、最初の川口春奈は「巨人川口(A)の肩に乗る巨人川口(B)の肩に乗る巨人川口(C)の肩に乗る巨人川口(D)の肩に乗る川口春奈(E)」となる。

最初の川口春奈=川口春奈(E)だ。

ちなみに Aが一番大きく、Eが一番小さい。

これは有名な「巨人の肩に乗る」という格言をパロディ的に取り入れたものなのだろう。先人の積み重ねにより、より一層高い視点を得られるとか、そういう意味だった気がする。

この言葉を初めて知ったのは、そう、Google Scholarだ。論文検索でお世話になった。

久しぶりに開いてみた。

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立っている

「え、立つなの?乗るんじゃないの?これは同じ意味なの?」疑問が湧く。とりあえず信用できそうなサイトを調べてみると、こんなのが出てきた。軽く流し読みしてくれれば大丈夫。

“シャルトルのベルナルドゥスはわれわれをよく巨人の肩の上に乗っている矮人(わいじん)に準えたものであった。われわれは彼らよりも、より多く、より遠くまで見ることができる。しかし、それはわれわれの視力が鋭いからでもなく、あるいは、われわれの背丈が高いからでもなく、われわれが巨人の身体で上に高く持ち上げられているからだ、とベルナルドゥスは指摘していた。私もまったくその通りだと思う。” 
引用はここから
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000151707

これは中世の人文主義者ソールズベリのジョンという人が言った言葉らしい。「巨人の肩の上に乗っている矮人(わいじん)」であったり、「われわれが巨人の身体で上に高く持ち上げられている」となっている。

後者は「持ち上げられている」となっているが、別に高い高いしてもらっているわけではないのだろう。

ちなみにベルナルドゥスは12世紀のフランスの神学者らしいが、この人が「巨人」に関する発言をしているのかは分からない(Wikipediaを見ただけ)。

もう一つ、上の引用ページにはニュートンの言葉も出ていた。

 “デカルトの成したことは、よき一歩でした。あなたはいくつかの方法で、特に薄膜の色を哲学的な考察の対象とした点で、多くをつけ加えました。もし私がさらに遠くを見ることができたとするならば、それは巨人たちの肩の上に乗ったからです。”

これにも巨人たちの肩の上に「乗った」と出ている。「立つ」ではないようだ。なんだろうか。ちょっとググっただけでは分からなかった。

だが、ここで大きな問題に気づくことになった。巨人の肩に乗ろうが立とうが、大事なことは「その巨人よりも高い目線を獲得できる」ということにあるはずだ。

上に引用したものでも「より多く、より遠くまで見ることができる」と言われている。

ここで、最初のCMに戻らなければならない。

最初の川口春奈は「巨人川口(A)の肩に乗る巨人川口(B)の肩に乗る巨人川口(C)の肩に乗る巨人川口(D)の肩に乗る川口春奈(E)」であり、この格言の通りであるためには、川口春奈(E)が川口春奈(A)よりも高い場所を見ていなければいけない。

だが、目線の位置は川口春奈(E)<川口春奈(D)となっている。

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このCMのままでは格言が逆になってしまう。巨人の肩に座っていては巨人よりも低いものしか見えない。その巨人もより大きな巨人に座っていたら、より大きな巨人よりも低いものしか見えない。

結局、最初の巨人が一番よく見えてるってことになってしまう。


個人的には、巨人の肩の上に座る≒巨人の肩の上に乗るだと思う。これは結局巨人以下の目線しか獲得できない。先人以下になってしまう。

だから、立たないといけないんじゃないんだろうか。肩って不安定だし、落ちたら取り返しがつかなくなることもあるのだろうけれど、それでも立たなくては、それ以上になることはできない。


座っているのは楽だけど、辛くても立たなくてはその先は見えない。


きっと、ポテトデラックスのCMはそんなことを、考えてはいない。

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