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週末スイッチ【僕らのあざとい朝ごはん応募作】

――ようやく一週間が終わった。

一人暮らしの狭い部屋に辿り着くや、仕事の疲れがじっとりと沁みついた服を脱ぎすて、冷蔵庫からキンと冷えた缶ビールを取り出す。

「うっま……」

閉店間近のスーパーで半額になった弁当をかき込み、とりあえず腹が膨れてついうとうとしかけた雅斗は、慌てて目を開けた。
金曜日のビールに溺れてしまわないうちに、やっておくことがある。

雅斗は冷蔵庫を開けると、卵と牛乳を取り出した。
皿に卵を割り入れて、牛乳をそそぐ。分量なんて知ったこっちゃない。砂糖はなし。しっかり混ぜたら、半分に切った食パンを浸してそのまま冷蔵庫へピットイン。

これが雅斗の金曜夜のルーティンだ。
どんなに遅くても、どんなに疲れていても、この作業は欠かさない。
皿の中で半切りの食パンをたぷんとひっくり返していると、明日から休みという実感がふつふつと湧き上がってくる。
週末スイッチがONになった瞬間だ。

このレシピを教えてくれたのは、大学の陸上部の先輩だった。
二つ年上の、女子部のキャプテン。カラッとしててカッコいい、年上の女性ひと。超セオリーすぎる。
同じ短距離チームの雅斗は、ランパンからすらりと伸びたカモシカのような彼女の脚に、いつもこっそり見惚れていた。

チームの飲み会で酔い潰れた雅斗を「しょうがないなあ」と一晩泊めてくれた翌朝、出てきたのがこのフレンチトーストだ。

「先輩……これ今朝作ったんすか」
「いや、君が昨日寝ちゃった後に浸しといた。私、いつも週末はそうするの。でも昨日はパンが一枚しかなかったから、悪いけど半分こね」

目の前にとんと置かれた皿の上に、半切りのフレンチトーストが黄金色に輝いている。朝の光が溢れた部屋いっぱいにぷんと漂うバターの香り。
雅斗の空腹ゲージが一気に跳ね上がる。

「はい、仕上げのメープルシロップ」

先輩が向かいからたっぷりとシロップをかけてくれる。

「先輩、意外っすね。朝メシにフレンチトーストとか、お洒落」
「意外とは何よ、失礼な。でもお洒落っていうけどさ、フレンチトーストって、要するに『卵かけごはん』だから」
「は?」

きょとんとする雅斗の向かいで、先輩はふふっと笑みを浮かべた。

「卵かけごはんってさ、『白いごはん・生卵・お醤油』でしょ?フレンチトーストも一緒だよ。『白い食パン・生卵・メープルシロップ』ってね。違うのは、ごはんを炊くかバターでパンを焼くかってだけで」
「言われてみれば……でも何か違う気もするんだけど」

細かいことは気にしないの、と先輩は屈託なく笑った。
 ” 洋風卵かけごはん的フレンチトースト ” は思わず声が出るほど美味かった。

「嫌なこととかあってもさ、休みの日まで落ち込んでたらもったいないじゃん?だからスイッチ入れるんだよ」
「スイッチ?」
「そう、週末スイッチ。これで自分は元気になる!ってね。それがこのフレンチトーストなの、私にとって」
「すげ、先輩……」

慣れれば簡単なもんだよ、雅斗も作ってみれば?と、さも美味しそうにフレンチトーストを頬張る先輩が軽やかに笑う。

――落ちた。いともあっさり。


社会人になった今も、先輩の黄金のレシピを受け継いで、雅斗は週末の朝にフレンチトーストを焼く。バターが溶けて卵の焼ける芳ばしい香りが、平日に使い果たしたエネルギーをぎゅっとチャージしてくれる。

必ず金曜の夜に浸しておくこと。
砂糖は入れずに、メープルシロップをたっぷりかける。
そして焼く時は、絶対に絶対にバターを使うこと。
「ホットケーキシロップとマーガリンは厳禁ね」
それが掟、と先輩が笑って指を立てる。

「気持ちの切り替えが大事だよ。レースで失敗しても、いつまでもくよくよしてちゃだめ。自分なりにスイッチ切り替えてやってかないと」

あの頃の先輩の台詞が、雅斗の頭に甦る。

勝手に落ちて、勝手にアタックして、勝手に砕けた二年生の秋。
先輩のフレンチトーストが、本当は雅斗と入れ違いに卒業した男子部キャプテンのためだったと知ったのは、そのあとの話。

気持ちの切り替えなんてできなくて。
簡単に諦めることなんてできなくて。
でもどうしても、その想いは届くことがなくて。

それで雅斗は、週末の朝にフレンチトーストを作るようになった。
その香りに包まれている時だけは、目の前に先輩のあの笑顔があるような気がした。

先輩が卒業して、いつしか自分も最上級生になり、それから社会人としてまた新人ルーキーになって。
そして今は再び、あの時と同じ二年生だ。
優柔不断で要領が悪いのは相変わらずかと、雅斗はフライパンの前で苦笑する。
それでもひとつだけ、変化があった。

「――あ、起きた?フレンチトースト焼くけど、食べるよね」


拝啓 
先輩、お元気ですか。
僕が金曜の夜に浸すパンは、二枚になりました。でもほんとは一枚を半分こってのも悪くないと思うけど。
そう、僕がまだ二十歳だったあの日の朝のように。


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秋田柴子
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