日本の近代建築
近代(戦前・大正・明治・幕末)
日本独自の耐震構造技術への関心が高まったのは、日本において1891年(明治24年)の濃尾地震や、1923年(大正12年)の関東大震災で煉瓦造建築に大きな被害があったことから。
建築とは、芸術・美術ではなく、まず近代化のために西洋から学ぶべき工学的な学問であり、技術であると捉えられ、この意識は今日まで続いています。
建築の芸術性
大正中期の1920年に日本初の建築デザイン運動として、東京帝国大学建築学科出身者数人が集まり、分離派建築会の活動が始まりました。
これは、耐震構造など建築の工学面を強調する風潮に対し、建築の芸術性を主張したもので、図形や模型をもって展覧会などを通して、社会に問い、建築に関する考え方を改革することを訴えた日本で最初の試みでした。
分離派建築会は、ウィーン(ドイツ)の保守的状況に不満を抱いたクリムトを中心とする美術団体ウィーン分離派の活動に感銘を受けたメンバーにより命名されました。
これらの活動は同世代の建築家や学生たちの共感を呼び、類似のグループが各地で結成と消長を経て、現在の「新建築家技術者集団」へと繋がっています。
近代化へ向けて
耐震構造への関心が高まる前、明治初頭、日本政府は近代化に必要な都市を築くため、西洋建築の技術を得ようと必死でした。
そこで政府は、イギリスからウォートルスやコンドルが招き、コンドルは工部大学校で日本人建築家の育成に努め、教え子の第1期生が、東京駅や日本銀行本店などいくつもの名建築を手掛けた辰野金吾でした。
官庁集中計画
官庁集中計画とは、明治時代の首都計画で、議事堂や官庁などを霞が関付近に集中し、パリやベルリンに並ぶ華麗なバロック建築都市を建設しようとしたものです。
政府による官庁集中計画が立てられると、専門家育成が必要だとドイツから指導者を招きました。
その指導者から日本人の留学を進言され、日本政府は建築技師・石工・大工・人造石左官・煉瓦職・ペンキ職・屋根職・石膏職の高等職人の総勢20人をドイツに留学・派遣しました。
3年の留学の後、知識と技術を得た彼らの多くは日本国内の建築分野で活躍し、ロンドン大学に留学した桜井小太郎が1892年(明治25年)に日本人初の英国公認建築家の資格を得ています。
文明開化と建築
文明開化とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指します。
幕末に、外国人居留地が開かれると、外国人の住居、商館、教会などが建てられるようになり、居留地の建築に刺激を受けた棟梁たちが、幕末から明治初期にかけて各地に見よう見まねの洋館を建て始めました(擬洋風建築)。