田舎暮らしの可能性を考える(1)
都会の人はケチで、田舎の人は太っ腹?
どう思いますか?
調査や学会などで、いわゆる「田舎」によく行きます。
そこでいつも感じることは、田舎の人たちがとても親切であること、そして働き者だということです。
いろんな話を聞かせえてもらっていお世話になっているのは私の方なのに、
「これ美味しいから食べて」「これお土産に持って行って」と手作りのお菓子や野菜や果物をもらうことが多く、恐縮してばかり。
沖縄ではそれを「かめーかめー攻撃」(食べなさい食べなさい攻撃)というのですが、沖縄だけではなく、日本中の田舎はどこも同じですよね。
猪垣の調査で和歌山の山村に行った時はみかんを沢山もらってしまいました。
その前週にはボランティアで熊本の山村に行っていたのですが、その時も唐イモをたくさんいただいたのですが、熊本では帰る直前に「ちょっと待っててね」と言われ、「これ食べてから帰りなさい」とたくさんのいきなり団子(唐イモの大きな団子)持ってきてくれ、その親切さに頭がさがるばかりでした。お腹はキツカッタけれど。
沖縄でも、ヤンバルや離島に行くと、貰ってばかりでほんとうにありがたくも恐縮しています。
こんなこともありました。
山の中の小さなカフェでそこを経営しているおばあちゃんと話していた時のことです。話題が、庭の綺麗なたくさんのアジサイの話になると、苦労して増やしたアジサイを惜しげもなく、切って「おみやげにどうぞ」と言ってくれました。そのアジサイは我が家の庭にしっかり根付いています。
もちろん、田舎での生活は「いいこと」ばかりではありません。
人間関係が濃密なので、助け合いや支えあいもあるけれど、プライバシーを保つことは難しく、困っている人を皆で救済はしますが、逆に、出る杭は打たれます。落ちこぼれようとする人は救うけれど、伸びて行こうとする人には嫉妬から来る厳しい意地悪も確かにあります。そのために、いつも「人に何を言われるのか」を気にしなければなりません。できるだけ「出しゃばる」ことはしない。
それに対して都会で生活する私たちはどうなのでしょうか。それを象徴する出来事が数年前にありました。
東北の被災地の避難所で生活していたお爺ちゃんとお婆ちゃんが、縁あって沖縄に遊びに来てくれた時のことです。
二人の老人の付き添いとして東京から二人の40代のNPOの女性も一緒でした。その四人を私の車に乗せ、二泊三日の沖縄本島北部やんばるへ旅行に行くことにしました。
田舎暮らしの二人の老人は、たくさんのお土産を持って来たばかりではありません。帰りのお土産の泡盛を買うためにやんばるの酒造所に店に連れて行くと、いつの間にか私の分の泡盛まで買っているのです。
「そんなに気を遣わないでください」「いえいえ、泡盛お好きでしょう」という会話の繰り返し。
やんばるのおじぃやおばぁもと一緒に、サーターアンダギーを作ったのですが、お互いすぐに気が合って大盛り上がり。やんばるのおじぃやおばぁもこれまた沢山のお土産を持たせてくれました。
それに対して東京から来た女性二人は、食事をするたびに、「割り勘にしましょうね」と口癖のようにいうので、次第にウンザリしてきてしまいました。
それなのに、「ガソリン代も高速代も気にしないでください」と私が言うと、「あ、そうですか。ありがとうございます」とあっさり言ってしまう。
お土産は持ってこなかったのに、老人二人に便乗してたくさんのお土産を持って帰って行きました。
もちろん、私は、都会の人はケチだといいたいのではありません。都会にも田舎にもケチもいれば太っ腹の人もいるというだけのことです。
私がその時その二人を見て思ったことは、精神的に余裕がないのだろうなということです。
せっかく沖縄に来て、しかものんびりとした田舎に来ているのに、いつも何かに追われ、要領よくやろうと計算ばかりしていました。自分を守ろうとしてガードを張ったまま、腹を割って話すこともありません。
老人二人の付き添いのために自費で沖縄に来ているのだから「ケチ」ではないはずです。しかし、行動のひとつひとつが神経質で、他人に心を許せていない。自分のことで精一杯とういう感じなのです。
おそらく、都会での神経を使う生活が身体に沁み込んでしてしまっていて、一日二日の沖縄の田舎生活では、ギアチェンジできないのだと思います。
(つづく)