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翔べ君よ大空の彼方へ     1-⓽ 命

 この世に生まれる命もあれば、天に召される命もある。それがこの世界の常である。

 ムーランルージュは、フランスG1ジャックルマロワ賞勝利の後、年末の香港で開催された香港マイルを制し、翌年の引退レース、アメリカのBCマイルを6ヶ月半の休み明けも何のその、圧倒的な逃げ脚を見せてG1レース4勝目を挙げラストランを飾った。そして繁殖牝馬となる為にクリストフ牧場に凱旋した。

 いわゆる名牝である彼女の元には、一流種牡馬を供用する国内外の牧場から多数の種付け依頼が舞い込んでいた。

 優秀な血を残すことに全力を尽くす事は、サラブレッド世界では至極当然の事である。ウッドとバルザはじっくりと配合の検討を重ね、欧州年度代表馬や米国二冠馬などの種付けを行った。

 しかし、繁殖牝馬としての初年度は不受胎、そして翌年度の出産では、生まれた仔馬は自力で立つことができなかった。長い間、母馬の胎内で育ち、さあ、これから好きなだけ大地を走り回る事ができると言うのに・・・。

 母馬は懸命に、さあ立ちなさい!と言っているかのように、生まれたばかりの小さな仔馬をペロペロ舐め、ウッドも、懸命に治療を施したが、その日の夕方に仔馬の命は尽きてしまった。

 天に召された小さな仔馬は、お墓の中へ丁寧に埋葬された。
 陽子がフランスに来て、初めての悲しい別れであった。泣き崩れる陽子を、家族は優しく慰めた。

「生きていればこそ、体にも心にも傷を負うんだよヨーコ。ただ、ヨーコには愛してくれる存在がたくさんいる。5人いれば喜びは5倍になるし、悲しみは5分の1になる。ヨーコが泣いてくれて、あの子はきっと喜んでいるよ・・・」
 バルザは陽子を、子供をあやすように優しく諭した。陽子は涙を零しながらも頷いた。

 悲しみも喜びも、全てを受け入れる覚悟で、彼女はこの地に根を下ろしたのだから。

 強くなろうと思った。
天に召された仔馬の為に。何よりも、まだ小さなエリーの為に。

 そんな彼女を励ますかのように、ムーランルージュは第2仔、第3仔と無事に出産し、仔馬もすくすくと育っていった。
 そして、第4仔の受胎を確認してから11ヵ月後の翌春、3月中旬のとある明け方の事。
 産気づいた母馬を励ますウッドと陽子の横には、スタッフに手を引かれたエリーの姿もあった。

 陽子がウッドにお願いしたのだ。
生を知って欲しい。そしていずれは訪れるであろう死をも …と。

 エリーはじっと、生の瞬間を見つめていた。
 母馬はその体を寝藁の上に横たえていた。仔を宿した腹が大きく波を打つ。息遣いが次第に荒くなり、腹の波打ちが更に大きくなる。
 痛みの頂点・・・しかし.ウッドも陽子も手を貸す事はできない。これは、母馬が新たなる命を産み出す戦いであるのだ。
 勢い、母馬が大きく喘ぐと、羊膜で包まれた小さな蹄が現れた。
 破水・・・しばらくの後.鼻先が.頭が姿を現す。まだ・・・これからだ。

 がんばれ!がんばれ!
エリーは目に涙を浮かべながら呟いた。
仔馬の肩が出てきた。もう一息。

 母馬が、最後の力を振り絞った。
他の馬房の馬達が、まるで母馬の命を産み出す戦いの応援をするかのように次々と嘶きを放つ。

 そして・・・・・・全てが解き放たれた。
ついに、仔馬がこの世界に誕生した。
ウッドも、陽子も、その場で見守っていたスタッフ達も全員が息を呑んだ。

「まっしろなおうまさんだよ、パパ、ママ!」

 我に返ったウッドと陽子は、仔馬の体をバスタオルで拭いて、仔馬の鼻の穴に溜まった羊水を吸引して、呼吸を確保した。へその緒が切れたら消毒液をかけて、その後の処置をする。
 生まれたばかりの白馬を優しい眼差しでペロペロ舐める母馬。
 何度も、何度も立ち上がろうとしては、尻餅をつき、それでも諦めずにまた立ち上がろうとする仔馬。

 そして15分後、彼は自らの四肢で立ち上がった。
 エリーは生命の力強さに感動して泣いているのであろうか・・・
「パパ、ママ、おうまさんがんばったね〜」泣き笑いの彼女を、2人は優しく抱きしめた。

「エリーもがんばったね!」

 白い仔馬は無我夢中で、母馬の初乳を飲んでいた。


 その年の9月、夏の暑さも過ぎ、これからいよいよ1歳馬が本格的にトレーニングを積むために育成牧場へ移動する日が近づいていたある日の夜半、その異変は起こった。

 監視カメラをチェックしていたスタッフが、ムーランルージュの異変に気付きウッドと陽子に知らせに走った。

 2人とスタッフが馬房に駆けつけたときには、ムーランルージュは、すでに息絶えていた。
 監視カメラの映像を確認すると、仔馬の横で眠りに就いていた彼女は突然立ち上がって馬房を何周かした後、
「助けて!」と、叫んだのであろうか?
一声を発してから、馬房の壁に体をぶつけ、そのまま崩れ落ちたのだ。
 後に子宮周囲の動脈断裂による出血性ショックと判明した。
 彼女は仔馬の体を守るように、押しつぶすことのないように、仔馬の横に横たわっていた。

 仔馬はじっと母馬に寄り添っていた。


 フランス競馬史にその名を刻んだ名牝を見送る会には、数多くの馬主・調教師・騎手等の競馬関係者だけにとどまらず、国内外からたくさんのファンも訪れ、いかに彼女が多くの人々に愛されていたのかを改めて心に刻み込む、悲しい1日となった。

 本来ならば、もう少しだけ先となるはずの離乳(仔馬が独り立ちするために、母親から引き離す儀式)の時期が、まさかの母仔の別れによって早まってしまった仔馬が哀れでならなかった。

 仔馬は嘶き、母親を呼び求めて馬房の中をぐるぐると周回していた。それでも、陽子やエリーが姿を現すと落ち着きを取り戻し、甘える姿を見せた。母親の温もりが恋しいのであろう・・・頭を撫でて優しく歌いかけると寝藁の上に体を横たえて、そのまま眠ってしまうかのようであった。


 彼女は夢を見ていた。
確かこの辺は、海を見下ろすことのできる、広大な牧場であったはずだ。
 しかし、今辺りは闇である。
その闇の中を、1頭の馬が大地の端へと歩みを進めていた。
 闇の中、歩みを止めないその馬に恐怖を抱き、彼女は手綱を引いた。しかし、もがく彼女を全く意に介せずに、その馬は大地の終わりへと近づいていく。恐怖のあまり、目を開けることも、声を上げることもできなかった。

 もう駄目だ!・・・そう思ったその瞬間、
まさに、生と死の境目のギリギリのところで、その馬は立ち止まった。そして、
「ブルルン」と鼻息を鳴らした。

 彼女が恐る恐る目を開けると、そこには・・・無数の光があった。いや、正確には、海に浮かぶ無数の光と言うべきか。
 やがて、その光は空へと浮かび、まるで何万匹、何十万匹の蛍が発光しているかのような強烈な光となった。

 彼女はその光を呆然と眺めていた。
やがて、彼女を乗せたその馬は、何歩か後ずさりをし、脚を折りたたみ彼女を大地へと降ろした。彼女は、初めてその馬と瞳を合わせた。

 その馬は・・・彼女がよく知っている馬だった。
 とても大切な・・・縁を結んでくれた馬。
彼女はその顔を包み込み、優しく抱きしめた。その白斑を、きれいな流星を、何度も、何度も撫でてあげた。

 やがて、その馬は意を決したかのように起き上がり、大地の終わりへと歩み出した。

 彼女が悲痛な叫びを上げる。
その馬は振り返ることなく一点を目指す。その瞳に涙を浮かべながら・・・。

 彼女との別れだった。そして・・・
その馬は宙へと浮かび上がり、やがて、無数の光の一部となってしまった。

 夢は、解けてしまった。
悲しみが満ちる。一筋の涙が溢れ落ちた。


 ムーランルージュが天国に召されてから、エリーは両親と同じ時刻に起き、仔馬の世話をするようになった。
 ミルクや飼い葉を与え、優しく話しかけたり、歌を歌いながらブラッシングをしたり。毎日、毎日。

 学校から帰宅すると猛ダッシュ・・・放牧地を走り回る仔馬に会いに行く。彼女の姿を見つけると、仔馬もまた猛ダッシュで、それこそ牧柵に突っ込んでくるかの勢いで、彼女の前に姿を現す。まるで、彼女を母馬だと思っているかのように。

「エリー・・・ムールーは小さなお骨になって、お墓の中で眠っているけど、魂はね、永遠に生きるんだよ」
 見送り会を終えたその日の夜、仔馬に寄り添っているエリーの頭を優しく撫でながらウッドが言った。

「タマシイ?」エリーは首を傾げた。
「魂はね、心のことだよ。ムールーは焼かれてお骨になったけれど。、心は焼かれなかった。エリーもムールーとの思い出たくさんあるだろ?」
「うん!ママの畑にニンジン取りに行って、2本ムールーにあげたらすごい喜んでくれたよ。あ!ママには内緒ね!」
 エリーは口元に人差し指を当てて笑った。
「シーッ!」ウッドもエリーに倣い、人差し指を口元に当てて笑った。

「エリーはムールーの事忘れないだろ?」
「うん!絶対に忘れないよ!」
「その気持ちがね、魂だよ。エリーの心の中に残した、ムールーからの宝物だよ」
「うん、タカラモノ!」

 エリーは、横ですやすや眠る仔馬の背中を優しく撫でている。
「きっと、天国で思う存分走り回っているよ。それと・・・」
「それと?」
「たくさん面倒を見てくれてありがとうって言ってるよ」
「・・・・・・・・・」

 張りつめていた緊張の糸が、ぷっつりと切れてしまったかのように、エリーの瞳から涙が零れ落ちた。幼い心の中に押さえ込んでいた悲しみがゆっくりと解けていく。
 と、彼女の横で眠る、その暖かい背中がピクリと動いた。
 仔馬は勢いよく立ち上がり、
「ブルルン!」と嘶き、エリーの瞳を見つめた。

「エヘヘ。ごめんねー、フェニックス」
エリーは仔馬の鼻面に頬を寄せて、その美しい白のたてがみを優しく撫でた。

 この日、フェニックスルージュと呼ばれた仔馬は、母、ムーランルージュに永遠の別れを告げた。

 その瞳は澄んだ宝石のように光輝き、未来だけを見つめていた。

魂は永遠に🙏🙏


 この作品を通して、養老牧場への牧草寄付等の引退馬支援を行います。その為のサポートをしていただければ幸いです。この世界に生まれたる、すべてのサラブレッドの命を愛する皆様のサポートをお待ちしております🥹🙇