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翔べ君よ大空の彼方へ     3-⑳ 決意

 湖面に面する公園で休日のひとときを楽しんでいる親子連れ、スケートボードに興じ歓声を挙げる子供達、公園の芝生でお弁当を広げている若者達のグループ・・・晴れ渡る日曜日のいつもの景色の中、彼は自宅のベランダで1人ぽつねんと佇んでいた。

 人は、本当の悲しみに出会った時、涙を流すことさえ忘れてしまう。

 今の彼にとっては、未だ居残る残暑さえ冷たく感じられるのだろう・・・失ったものを取り戻せないやるせなさが、彼を包み込んでいたのだから。

 突然の別離に理解の追いつかない彼を献身的に支えたのは、彼女との出会いをサポートした鷹騎手とその夫人であった

 2人の尽力もあり、翔馬はどうにか喪主としての務めを果たし終えたのだった。

 憔悴しきった、その痛々しい姿に、誰もが嗚咽し、悲しみを堪えることができなかった。
 競馬サークルのたくさんの関係者が彼を慰め、悲報を聞きつけた数多くのファンも彼女の死を悼み、魂の平安を祈ったのであった。

 どれほどの時間立ち尽くしていたのだろうか・・・日が暮れ始め、人々がそれぞれ家路につく頃に、彼はようやくリビングへ戻る意思を見せた。

 沈みゆく太陽は、何も答えてはくれなかった。


 ここ数日、ほとんど何も食べていなかった。
 最低限の水とコーヒー、板チョコ1枚と、それだけであった。

 それでも、彼は生きている。
彼は自らを強く保つ努力をした。いや、
それはあくまでも、彼を心配する人達に対してである。理性を強く保っている姿を見せなければ、彼は、守られてしまうから。

 2人を愛する人々が、傷心の彼を必死に守ろうとした。
 それでも、彼は1人になりたかった。

 電話、LINE・・・日に数度、彼を心配する人達からの連絡があった。
 彼はその全てに真摯に対応した。
〝大丈夫です!〟と。〝少し休んだら大丈夫ですから〟と。時には笑顔のスタンプを送ったりもした。

 冷蔵庫の中には、彼の大好物である稲荷寿司が残されていた。
 彼はその皿を手に取り、コーヒーメーカーに残っていた、煮詰まっているであろうコーヒーをカップに注ぎ、ソファーに座り込んだ。

 自慢の稲荷寿司・・・その由来を彼女が教えてくれた。

 彼女は8歳の時、交通事故で両親を失った。一旦親戚に引き取られたものの、何らかの理由により養護施設に送られ、高校卒業までをその施設で過ごしたという


 遠足の時、家族旅行に行く時、友達が遊びに来た時・・・彼女の母はいつも特製 の稲荷寿司を作ってくれたそうだ。
 何度食べても、何個食べても飽きない彼女に、両親も笑みが絶えなかったと。

 そんな彼女の周りには、いつもたくさんの笑顔があった。
 前向きな彼女の笑顔にいつも助けられ
、支えてもらっていた。
 今の自分があるのは、すべて彼女のお陰と、自信を持って言えた。

 彼は稲荷寿司を1つ手に取った。
いつもの、あの優しい味であった。

 もう1つ、また1つ・・・。
彼は、頬を濡らすものの正体に気付いているのだろうか・・・かけがえのない大切な人の記憶に、彼はようやく・・・。

 悲しみの涙が、夜のしじまに溢れ落ちていった•••。



 小鳥の囀りで彼は目を覚ました。
いつの間にかソファーで眠ってしまったようだ。
 柔らかな秋の日差しが、湖面をキラキラと輝かせていた。

 ランドセルを背負う子供達の笑顔、愛犬にリードを引っ張られている老婦人、
ジョギングをしている壮年の男性・・・
 既に1日は始まっていた。

 鏡の中に映る、その決意に満ちた表情は、まるで彼の不退転の決意を投影しているかのようであった。

 彼は、注いだばかりのコーヒーを口にしながら瞑目し、心を落ち着かせた。
 そして、テーブルの上に便箋を広げ、
ペンを走らせ始めた。
 一字一句に精一杯の思いを込めて。

 4時間程をかけて、彼は十通の手紙を完成させた。
 蒼井先生、朝日師、冨士原師、歩夢、翼、久美、森永師、ロッシ、エリー、そして、鷹夫婦には特に念入りに仕上げた

 彼は、一通一通に改めて目を通してから封を閉じ、必要最低限の荷物を小型のバックパックに詰め込み始めた。
 彼の師が、調教師引退後、いの一番に実行すると公言していた事を、そして彼自身も、四国出身の彼女といつか2人で
!と、約束していた事を実行する為である。

 彼は今、自らを解体する為に、あるいは解放する為にふるいにかけられようとしているのかもしれなかった。

 それは、痛みを伴う難行である。  その先に、何が見えるのか予測不可であるけれど、明日の為に、またその先の希望を求めて、彼は旅立つ事を決めたのだった。

 彼は仏壇の前で正座をし、ろうそくと線香を手向け、師と彼女、そして彼女の両親の位牌に向き合った。
 まるで、許しを乞うているかのように
・・・。

 何事かを呟いた後、仏壇に供えられてあった師と彼女・・・2人の一片が収められたそれぞれのお守りを首にかけ立ち上がった。

 自室の本棚からフォトブックを取り出し、数枚の写真を抜き出した後、師からプレゼントされた宝物のG-SHOCKを左手首に巻いた。

 リビングに戻りスマホをチェックした彼は、まるで退路を断つかのようにスマホの電源を落とし、テーブルの上に置いた。
 そして、十通の手紙を手に取り、バックパックを背にして玄関へと向かう。

 白色のスニーカーを履いて立ち上がり
、後ろを振り向いて一礼をした。


 昨日までの暑さが嘘のような、柔らかな秋の風が吹いていた。

 彼は、歩道の前で瞑目した。
色鮮やかな花束がいくつも供えられていた。
 その花束をじっと見つめ、マンション前のポストに十通の手紙を投函した。


 彼は一体、どこへ向かうのだろう・・
・痛みを抱えながらも、希望を求めて歩く、その頼りない背中をほんの僅かに照らす金色の光。

 茜色に染まりゆく空から、丸い月が顔を出していた。

 親友の四十九日を終えた10月中旬の秋風薫る夕暮れ時、その丸い月を見上げながら、彼は人知れず忽然と姿を消した。

 赤とんぼの群れが、柔らかな風に舞いながら、彼の影を追いかけていった。

傷心の翔馬。君は一体どこへ向かうのか?


 PS・・・いつもお目に留めて頂き、心より感謝申し上げます。次回配信は12月16日土曜日午前8時です。

 新たなる章の始まりです。
翔馬は一体何を決断したのか?そして、一体どこへ向かうのか?それでは皆さま、またお会いしましょう🥺🙏

         AKIRARKA

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